メッセージ - 初物は主のもの(申命記15:19-23)
礼拝説教メッセージ音声:初物は主のもの(申命記15:19-23):右クリックで保存
『牛、羊の産む雄のういごは皆あなたの神、主に聖別しなければならない。牛のういごを用いてなんの仕事をもしてはならない。また羊のういごの毛を切ってはならない。あなたの神、主が選ばれる所で、主の前にあなたは家族と共に年ごとにそれを食べなければならない。』(申命記15:19-20)
動物も人も、全て「男の初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる。
だから、初物を主に捧げた事によって、それに属する全ても「主に捧げられた」とみなされるのである。
罪は、人類全ての代表選手であるアダムによって入り込み、こうして、一人の人を通して、人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
しかしキリストは、人類全ての身代わりとなって、十字架上で罰を受け、死んで下さった。
そのキリストを、私達の主とし、私達の「代表選手」とする事によって、キリストが受けられた罰も、死も、よみがえりも、全て私達も「した」と、御父の前でみなされるのである。
そればかりでなく、キリストが成就して下さった律法も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と見なされるのだ。
また、初子であっても、傷物は主に捧げてはならない、と、されている。
『しかし、その獣がもし傷のあるもの、すなわち足なえまたは、盲目など、すべて悪い傷のあるものである時は、あなたの神、主にそれを犠牲としてささげてはならない。町の内でそれを食べなければならない。汚れた人も、清い人も、かもしかや、雄じかと同様にそれを食べることができる。』(申命記15:21-22)
私達は、総理大臣や大統領に対して、傷物のものや、賞味期限切れのものを、プレゼントできるだろうか。
私達は、目に見える人間は普通に敬えるのに、目に見えない神は、あたかもいないかのように思ってしまい、無意識的に軽んじやすい。
しかし、主こそ総理大臣や大統領よりも大いなる方であり、何よりも恐れ敬うべき方である。
『わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。ところがあなたがたは『われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか』と言い、汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。
あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:6-8)
神はいない、と、みなしている人にとって、神に捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為であると見なすものだ。
だから彼らにとって、きず物や無価値のものを神に捧げるほうが、エコで効率的、という事になり、傷のない良いものは自分のために残そう、という事になるのだ。
しかし、あいにく、神は生きておられ、私達を創造された聖なる尊きお方であり、決してエコで省けるようなお方ではない。
私達の一挙手一投足を見ておられ、心の動機も見ておられる、全能なるお方である。
だから、主を軽んじた捧げ物は、主に忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。
主を軽んじるような捧げ物を、主は「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)
私達は、物やお金に限らず、礼拝や奉仕においても、「残りカス」を捧げてはならない。
世で遊ぶ事に疲れて、肝心の礼拝を休んでしまったり、礼拝の時は居眠りしてしまうとしたら、「残りカス」を捧げているのだ。
私達は、しっかりと自分を管理し、最も力のみなぎった自分自身という「初物」を、きよい供えものとして、主に捧げるべきである。