メッセージ - 一人の預言者の言う事を聞け(申命記18:9-19)
礼拝説教メッセージ音声:一人の預言者の言う事を聞け(申命記18:9-19):右クリックで保存
『あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記18:9-12)
主は、主以外の神を拝んだり、伺いを立てたり、占いや口寄せをする事を、忌み嫌われる。主の他に神は無く、それ以外の神を拝んでいるとしたら、その者は悪霊を拝んでいるのだ。
今の日本は、偶像礼拝は生活の一部となっている所が多く、また、占いについては、テレビや雑誌、インターネットなどで、簡単に目にする事が出来る。
この国は本当に、主の前に災いを積み上げている。
私達キリスト者は、この国を執り成さなくてはならない。
キリスト者は、そのような表立った偶像礼拝や占いはあまりしないであろうが、そうした表向きの偶像礼拝より、「本質的な偶像礼拝」こそ、気をつけるべきである。
「本質的な偶像礼拝」とは、御言葉に聞き従わない事、主の御声にそむく事である。
『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル15:22-23)
サウル王は、表面上は占いや口寄せを国内から取り除いたが、主の御言葉どおりに行わず、御声にそむいたため、王位から退けられてしまった。
御声に聞き従わないで、あくまで自分の思うがままにし続けるなら、そのうち、どんなに主に求めても主は答えて下さらなくなってしまい、サウルは最後には、自分が追い出した霊媒を呼び寄せ、死んだサムエルに導きを求め、ついには、無残な最後を遂げるに至ってしまった。(1サムエル28-31章)
私達が唯一、導きを求めるべきは、まことの預言者であるイエス・キリストである。
『あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)
モーセは、彼の後の時代に現れるひとりの預言者に聞き従うよう命じた。
この「ひとりの預言者」こそ、イエス・キリストである。(使徒3:22)
神様が、神と人とを仲介する預言者を立てるのは、人は、聖なる神の前に直接立てないからである。
『これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。』(申命記18:16-18)
人が、全能なる主の聖なる有り様に直接触れてしまうなら、死んでしまう。大祭司でさえ、自らを贖う血を携えずに至聖所に行くなら、打たれて死んでしまった。
だから、神と人との間に立つ仲保者が、必要なのである。
神は、イエス・キリストをその役割とするために使わされた。
『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)
「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とは、贖いの蓋の事であり、贖いの蓋とは、契約の箱(アーク)を覆っている蓋である。
インディー・ジョーンズの映画の中にもアーク(契約の箱)が登場したが、箱に蓋が被さっている間は何の害もなかったのに、蓋が取られた時、そこにいた人は打たれて死んでしまう、という場面が、映画の中にあった。
それと同じように、罪ある人間は、主の「聖」に直接触れるなら、死ぬしか無い。
そこでイエス様は、人が神の聖に打たれて死ぬという事の無いように、「贖いの蓋(ヒラステリオン)」となられたのだ。それが、ローマ3章23-26節の説明である。
イエス様は、神と人との間の覆いとなられ、それで私達は、キリストにあって、神の御前に出る事が出来るようになった。
もしイエス様抜きで御前に出るなら、死ぬしかないのだ。
『彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』(申命記18:19)
私達も、神が認証された預言者であるイエス様に聞き従わないとしたなら、神に責任を問われる。
結局、私達は、キリスト抜きでは御前に何も出来ないのだ。