メッセージ - 不正な者に対抗される主(申命記19:14-21)
礼拝説教メッセージ音声:不正な者に対抗される主(申命記19:14-21):右クリックで保存
『あなたの神、主が与えて獲させられる地で、あなたが継ぐ嗣業において、先祖の定めたあなたの隣人の土地の境を移してはならない。』(申命記19:14)
受け継ぐ事の出来る相続地の広さは、荒野での第二回目の人口調査の時の部族の人数によって、永遠に決定づけられ、この時に決定された相続地の境界線は、後代もずっと変えてはならないと、主は定められた。(申命記27:17、箴言22:28、23:10)
荒野で過ごした期間は、いかに良き地を継げるか、という、査定期間のようなもので、その期間、主に喜ばれ祝福されるように過ごした部族には多くが与えられ、主の怒りを買って人数を減らしてしまった部族には、少ししか与えられなかった。
同じように今、私達が生きているこの人生は、天の国という永遠の相続というボーナスを得るための、ボーナス査定期間みたいなものだ。
天には、キリスト者が永遠に住まうマンションが、相続地として用意されており、いかに良いグレードのマンションに住まう事が出来るかというのは、この、地上での人生という査定期間にかかっているのである。(2コリント5:10)
『どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。』(申命記19:15)
約束の血において、不正な事が行われた場合、それを罰すべき罪として定めるには、必ず二人以上の証人がいなければならない事は、既に17章で学んだ通りであるが、この制度を悪用する者が出てくる事も、当然考えられる。
証人が二人以上いれば、それで罪定めが成立してしまう、という事は、偽りの証人を二人立てるなら、無実の罪を着せる事も可能である、という事だ。
『もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。』(申命記19:16-17)
もし、証人が偽りを言っている疑いがある場合は、係争中の二者は主の前に出て、この事を時の祭司と裁判人の元に持って行かなくてはならない。
『その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。』(申命記19:18-21)
このように、偽りの証人に対しては、その者がたくらんだ訴えた罪状に対する処罰が、そのままその者に返される。
相手の財産を取るための偽りの訴えなら、その金額をそのまま相手に渡す事となり、相手を亡き者にしようという偽りの訴えなら、その者が、亡き者とされてしまうのだ。
ダニエルを陥れるために、「王以外を礼拝する者は死刑」という法律をわざわざ作り、潔白なダニエルを亡き者にしようとする者達があった。
そしてダニエルは「主を礼拝した」かどで捕らえられ、ライオンの穴に投げ込まれたが、主は御使いを送り、ライオンの口を塞いで、主ご自身が、ダニエルの潔白を証明して下さった。
それで、ダニエルを陥れようと企んでいた者達が、自分達が計ったとおりに計り返され、妻子もろともライオンの穴に投げ込まれる事になり、彼らが穴に落ち込む前に、ライオンに食い尽くされた。
このように、主の御前に、いつも正しく歩もうとする人は、主ご自身が潔白を証明され、守って下さるのである。
聖書の考え方に、現代蔓延している「言った者勝ち」という概念は無い。
むしろ、訴える事はサタンのする事であり、不当な「訴え」をする者には、それ相応の報いがそのまま返って来るものだ。
聖書はむしろ、「主に委ねた者勝ち」なのだ。