メッセージ - アダム - 土地の呪いとそこからの救い(創世記3:17-24)
アダム - 土地の呪いとそこからの救い(創世記3:17-24)
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「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。」(創世記3:17-18)
アダムの御言葉に対する不従順への報いは、土(アダマ)への呪いである。男は一生、汗水流し、労苦して働くけれど、土地はそれに対抗して、わずかしか実らせず、しかもわざわざ茨やあざみを生えさせるのだ。
私達はどうしたら、このアダムへの呪いから開放されるのだろうか。今回は、その方法を学びたい。
『主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」』(創世記3:22)
神から離れ、ほしいままに罪の善悪判断をすようになった人間を、永遠に生きないようにされたのは、神の大きな憐れみである。実際、後の時代になると、道ならぬ性によっていのちが呪われ、ネフィル(原意:伐採者。巨人、いじめっ子、暴君の意味もある)がはびこり、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生んで、新しく世に生まれてくる命たちは、ただ無防備に、暴虐に満ちた世へと、送り出されて行くだけだった。それで神は、人の齢を120年程度とされたのだ。(創世記6章)
神を知らぬ善悪判断を持った巨人達が、ほしいままに振舞っている世界、痛みと悲惨に満ちた世界の中で、決して死ぬ事が出来ないとしたら、それこそ地獄である。
神は、人が罪を犯したからと言って、そのまま滅ぼすことをせず、また裸のまま追い出す事はしなかった。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)
人は裸を覆うために自分の編み出した方法(いちじくの葉)によって取り繕いをしたが、それでは不完全だ。
真に裸を覆うのは、主の方法でなければならない。
日本で犯罪を犯したら、日本の法律に則って対処しなくてはならないように、人の弱さや罪を覆う方法は、神の方法に乗っていなくてはならない。その神の方法とは、犠牲である。
何かの動物を犠牲として、人に「皮の衣」が与えられたように、神は、私達の罪や弱さという”裸”を覆うために、キリストという、罪を贖うまことの小羊を犠牲として与えて下さり、”裸”を覆おうとされた。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着ているなら、神と悪魔の前に、決して裸ではない。
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、そういう自前の方法では、罪や弱さという裸を覆った事にはならない。ただ、神が与えて下さった”衣”で覆われてのみ、御前に有効なのだ。
罪や弱さという裸を覆う、神が与えて下さるまことの”衣”。それはキリスト、すなわち”第二のアダム”である。
ヤコブが動物の毛皮を着た事で、祝福を受けるべき子と認定され、祝福を勝ち得たように(創世記27章)、私達もキリストを着るなら、父なる神様から「祝福を受けるべき子」と認定され、祝福を勝ち得られるのだ。
キリストを受け入れた人、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
神の子と認定された人には、もはや第一のアダムの呪いは、及ばない。(1コリント15:42-49)
第一のアダムの失敗以来、被造物は切実な思いで神の子ども達の現われを待ち望んでいる。(ロマ8:19)
つまり被造物は、神の子達、すなわち、イエス様を信じるキリスト者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放され、神の子たちによる正当な支配に入る事を、アダム以来の呪いから解放される事を、切望しているのだ。だから被造物は、キリスト者が目の前に現れたなら、両手を上げて喜び歓迎するのだ。
キリストにあって歩み続ける人は、神の子としての性質をますます帯び、ますます被造物から歓迎される。
人がまだ善悪を知る前、神は人に、生んで増えるように、全ての生物を支配するようにと命じ、祝福された。
「他を支配するのは良くないのでは」と思う方もいるが、そう思う理由は、神を恐れぬ者による圧政や搾取などの「悪い支配」にうんざりしており、それを無意識的に恐れているからだ。
しかし、キリストにあって歩む人、御言葉に忠実な人が行う「正しい支配」は、確かに存在する。
神の子とされたキリスト者は、世の中から悪い支配権を奪回し、多くの人を、全被造物を、幸いにすべきだ