メッセージ - 古き滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くせ(申命記20:10-18)
礼拝説教メッセージ音声:古き滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くせ(申命記20:10-18):右クリックで保存
イスラエルから遠く離れている町々を攻撃する際は、以下のように命じられている。
『一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。』(申命記20:10-12)
主は、戦いの際でも、ある程度の秩序を持つよう命じており、テロのように奇襲攻撃を仕掛けたり、有無を言わせず蹂躙する事は許されておらず、まずは、穏やかに降伏する事を勧めなくてはならない。
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。』(申命記20:13)
ここに記されてる通り、戦闘を仕掛けて良いのは、「あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時」である。
だから、主が許されるのでなければ、戦いを仕掛けてもいけない。
ヨシヤ王は、とても良い王であったのに、戦いにおいて踏むべき手順を誤ったために、命を落としてしまった。(2歴代誌34-35章)
ヨシヤ王は、エジプトのファラオ・ネコが、他の国と戦うために行軍している所を、戦いを仕掛けようとして、出て行った。
『しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。』(2歴代誌35:21)
しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、変装までして戦いに行ったのだが、彼は射手に射抜かれ、その傷が元で死んでしまった。
エジプトは「イスラエルから遠く離れている町々」に当たるため、戦いを仕掛けるにしても申命記20:10-15節の御言葉を適用すべきであったのに、それをせず、また、主に伺いを立てる事もしなかった。
良い行いを積んで来た王と言えども、主の命令を離れ、むやみに戦うなら、命を落としてしまう。
この出来事を、私達は教訓として、肝に命じておきたい。
なお、主が約束して下さったカナンの地へと攻め入るための戦い、すなわち、自分の生活の場を勝ち得るための戦いについては、全く別の命令が与えられている。
『あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。これは彼らがその神々を拝んでおこなったすべての憎むべき事を、あなたがたに教えて、それを行わせ、あなたがたの神、主に罪を犯させることのないためである。』(申命記20:16-18)
これらの国々の住人は、老若男女を問わず、滅ぼし尽くさなくてはならない、と、定められている。
なぜなら、この地域の人々は、アブラハムの時代より以前より、主が忌み嫌われる事を御前に積み上げ(創世記15:16)、その目盛りが、いよいよ滅ぼされるべき所へと達したからである。
イスラエルが主の命令どおり、これらの国に攻め入るなら、必ず勝利を与えて下さる。
しかしそれは、イスラエルが正しいからでも、心がまっすぐだからでも無い。逆にイスラエルの民は、主の前に強情である。
主がこれらの国を滅ぼされるのは、これらの国が、悪いからだ。(申命記9:4-6)
しかし結局イスラエルは、妥協してしまい、滅ぼすべきを、滅ぼし尽くさなかった。(士師記1章)
そのためそれが罠となり、イスラエルは偶像礼拝へと傾いてしまい、主から懲らしめを受ける事を、たびたび繰り返す歴史となってしまった。
私達にも、生活の場に残してはならない”滅ぼし尽くすべきもの”がある。
『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。』(コロサイ3:5-11)
イスラエルの民が、もしあの時、滅ぼし尽くすべき者をしっかり取り除いていたなら、どんなに妨げ無く祝福されていただろうか。
私達も、生活の場の中から、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを引き起こすようなものは、すっかり取り除くべきであり、そして、キリストという新しい人を”着”続けるべきである。
キリストという新しい人を”着”続ける人は、ますます新しくされ、真の知識に至り、そして、あらゆる死は勝利に飲まれるのである。
『朽ちるものは、必ず朽ちないものを”着”なければならず、死ぬものは、必ず不死を”着”なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを”着”、死ぬものが不死を”着”るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」』(1コリント15:53-55)
生活の中から、主の忌み嫌われるものを滅ぼし尽くすし、新しい人であるキリストを着て、ますます造り替えられ、清められ、あらゆる死を、勝利へと飲み尽くす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!