メッセージ - 実を結ばせる木と結ばせない木(申命記20:19-20)
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続いてモーセは、長期の攻城戦となった場合の指示をしている。
長期の攻城戦は大抵、多くの犠牲を伴うものであるが、モーセはどんなアドバイスをしているか。
『長く町を攻め囲んで、それを取ろうとする時でも、おのをふるって、そこの木を切り枯らしてはならない。それはあなたの食となるものだから、切り倒してはならない。あなたは田野の木までも、人のように攻めなければならないであろうか。ただし実を結ばない木とわかっている木は切り倒して、あなたと戦っている町にむかい、それをもってとりでを築き、陥落するまで、それを攻めることができる。』(申命記20:19-20)
面白い事に、モーセは人の心配より、木の心配のほうをしているかのようだ。
主が手渡して下さった敵との戦いは、たとえ攻城戦であろうと長期になろうと、人よりも木の犠牲のほうが心配されるほどまでに、人身の損害は無い、という事が、当たり前なのだろう。
実際、主が手渡して下さった敵との戦いは、見事な程に、犠牲者はいない。(民数記31章、1サムエル13-14章、他多数)
しかし、御胸でない戦いや神を怒らせた状態での戦いは、必ず惨敗する。(民数記14:41-43、1サムエル4章、他多数)
ここの節は、訳によって意味が分かれる所で、KJVでは次のように訳されている。
「thou shalt not cut them down (for the tree of the field is man's life) to employ them in the siege(あなたはそれらを切り倒してはならない。(野の木々は、人の命であるから。)包囲戦のために”徴用”しなさい。) 」
きっとこの箇所は、人に対してだけでなく、木などの自然界に対しても、むやみに生命を奪ってはならない事を命じているのであろうが、聖書の他の箇所の「木」を「人」として照らし合わせると、色々見えてくるものがある。
『ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:7-10)
パリサイ人やサドカイ人といえば、当時の宗教指導者達であるが、ヨハネは彼らに、躊躇なく言い放った。まむしの子らよ、と。悔い改めにふさわしい実を結べ、と。
外見的に、あるいは、言っている事が、いかに立派に見えても、悔い改めにふさわしい”実”を結んでいないなら、切り倒す斧は、木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木は、ことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまうのだ。
結ぶべき実とは、何か。
それは、ガラテヤ書5章に書いてある御霊の実である。
私達は、あるいは、私達が先生と仰いでいる人は、兄弟姉妹や隣人への愛があるだろうか。喜んでいるだろうか。平安だろうか。
寛容だろうか。親切だろうか。善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。柔和だろうか。自制があるだろうか。
バプテスマのヨハネは、パリサイ人やサドカイ人がこれらの「実を結んでいない」事で、彼らを見ぬいたのだろう。
豊かに結ばせるためのコツが、ヨハネ15章に記されている。
イエス様は、主こそまことのぶどうの木であり、私達はその枝、御父は農夫である事を言っている。
『わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。』(ヨハネ15:2)
私達が御神に対して、有用な実を、それも、豊かに結ばせる方法は、ただ一つ。
それはキリストに、すなわち、御言葉にしっかりとつながっている事だ。
そうでないなら、主に対して何の有用な実を結ばせる事はできず、外に投げすてられ、枯れ、集められ、火に投げ入れられるだけである。(同6節)
長期に渡る攻城戦になる時は、実を結ばせる木々が”徴用”されたように、私達も、キリストにつながり、豊かに実を結ばせるなら、主の働き人として”徴用”されるのである。
そして、神の軍の兵士として、キリストと共に、世に対し、サタンに敵対し、戦うのだ。
また、実を結ばせない木は切り倒され、邪悪な町を攻撃する際のとりでとして使われたように、主に対し有用な実を結ばせない者、肉由来の悪しき実ばかりを結ぶ者は、倒され、その持ち物は有用な実を結ばせる主の働き人達に渡され、用いられる事となるのだ。
「神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。」(伝道者2:26)
イエス様が、働きに疲れて、空腹を覚えられた時、一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかったため、その木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
『弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。』(マタイ21:18)
イエス様の呪いの奇跡は、この、実を結ばせないいちじくの木に対してのみであったが、私達も、信じて疑わないなら、私達の前に横たわっている妨害の山に対し、海に移れ、と、イエスの名によって命じる事が出来るのだ。
そして、私達がキリストの言葉にとどまっているなら、欲しいものは何でも主に求める事が出来、それが与えられ、ますます主に栄光を捧げる事が出来るのだ。(ヨハネ15:7-8)