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メッセージ - 神の民に、見て見ぬふりは無し(申命記22:1-4)

神の民に、見て見ぬふりは無し(申命記22:1-4)

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 申命記
執筆 : 
pastor 2014-3-10 23:39

礼拝説教メッセージ音声:神の民に、見て見ぬふりは無し(申命記22:1-4):右クリックで保存

『あなたの兄弟の牛、または羊の迷っているのを見て、それを見捨てておいてはならない。必ずそれを兄弟のところへ連れて帰らなければならない。もしその兄弟が近くの者でなく、知らない人であるならば、それを自分の家にひいてきて、あなたのところにおき、その兄弟が尋ねてきた時に、それを彼に返さなければならない。』(申命記22:1-2)

イスラエルの同族の家畜が迷子になっているのを見たら、それを放っておいてはならない。
たとえ、その持ち主が、たとえ憎たらしい相手であっても、その家畜は見捨てず、持ち主の元に無事返すよう命じられている。(出エジプト記23:4)
それは家畜に限らず、着物などの物であった場合も同様である。(申命記22:3-4)
神の民の中では、見て見ぬふりは無いのだ。

イエス様も、困っている人は助けてやるよう、次のたとえを話された。
『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。』(ルカ10:30-32)

祭司やレビ人は、神と人との間に立って、執り成しをする人であり、かつ律法を教える人であるが、その人を見ると、道の反対側へと避けて、通り過ぎて行った。
人間である祭司やレビ人には、弱さがあり、もし心や体に汚れを受けたなら、神の前で奉仕できないため、どうしても、人を助け切れない事がある。
牧師であれ有名な先生であれ、人間である働き人なら、皆そうである。

クリスチャンである皆さんも、この、強盗に襲われた旅人のような体験をした事は、無かっただろうか。
世の旅路を平穏に歩んでいるある時、突然強盗に襲われ、傷を受け、資産や大切な人を奪われてしまった事は。
もしかすると、その強盗は、突発的な事故や、自然災害だったかもしれないし、特定の人間だったかもしれない。
傷を受け、打ちひしがれ、もうどうにも動けなかった時、あの宗教者、この人格者に助けを求めても、何の助けにもならず、ただ素通りされ、置いて行かれたような事は。

『ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。』(ルカ10:33-35)
この襲われた旅人を、実際的に助けたのは、意外な人だった。
いわゆる人格者や、立派な人ではなく、罪人として蔑まれている、サマリヤ人だった。

そもそもイエス様は、なぜこのたとえを話しだされたのか。
それは、ある律法学者が『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』の、「隣人」とは、誰の事か、と、質問して来たからである。
では、この律法学者が愛するべき隣人とは、誰だろうか。
そして、私達が愛するべき隣人とは、一体誰だろうか。
その答えは、ただ一つ。
いつも私達の隣にいる、イエス様である。

イエス様は、世の旅路で強盗に襲われて、傷を負った私たちを、気の毒に思い、近寄ってきて、その傷に聖霊の油を塗って下さった。
イエス様の血であるぶどう酒を注いで消毒して下さり、イエス様が十字架上で裂いて下さった、御体という包帯で、覆って下さった。
イエス様は、その乗り物であるロバから降りて、そこに私たちを乗せて下さり、教会という霊的に憩いの場所へと連れて行って下さり、介抱して下さった。
そしてイエス様は、傷を負った人を教会に託される時、その人を介抱するのに必要な銀貨を、教会に置いて行って下さり、足りないならば、さらに必要分を支払って下さるのだ。

「行ってあなたも同じようにしなさい」(同37節)
キリストが、私達に為して下さったように、私達も同じように、傷ついた人の隣人となるよう命じられている。
私達はたとえ、サマリヤ人のように見下されているとしても、イエス様に癒され、イエス様に養われ、イエス様のご性質を帯びる事ができるのだ。

まことの隣人・イエス様に「隣人としてのもてなし」をして頂いた人ならば、心からイエス様を愛し、イエス様と同じ性質を帯び、心から隣人を愛する事が出来るようになる。
そうなると、もはや、下手な宗教心を喚起しなくても、自然とイエス様のご性質を帯びてくるようになる。
祭司やレビ人は、見て見ぬふりをして避けて通って行き、本性が露わにされたが、イエス様の愛に浸されるなら、そういう人を見てしまえば、憐れみが溢れだして、なりふりかまわず駆け出してしまうのである。

イエス様のご性質は、たとえ羊を99匹野に残してでも、失われた1匹を探しだす。
そして、失われた一匹を得たなら、天において大きな喜びが沸き起こる。
だから私達も、イエス様の愛に浸されこそ、はじめて、このサマリヤ人のように、主の愛を注ぐ事ができるのである。

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