メッセージ - カイン - 罪に慕われる時、支配せよ(創世記4:3-7)
カイン - 罪に慕われる時、支配せよ(創世記4:3-7)
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人類史上、初の「死」は、兄の手による弟の殺人であり、その動機は、捧げものに関するねたみであった。ねたみや怒りの衝動は、現代を生きる私達にも、ありありと存在し、それを対処する責任は私達にある。
そうした性質は、どのように対処すべきか。今回はそれを学びたい。
『カインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。』(創世記4:5)
神は、気まぐれや意地悪でカインの捧げ物を顧みられなかったのではない。彼が神を主としておらず、自分を主とする傲慢な心があったから、御前に正しくなかったから、その捧げ物を受け取らなかったのだ。
彼の行動は、明らかに、彼は自己流の方法を、神よりも高い所に置いていた事を示している。
私達の主は、キリストであって、自分ではない。まず、高ぶる心を下ろし、主を主として拝するべきである。
御前で怒り、顔を背けるという、尊大な態度を取ったにもかかわらず、神は彼を救うために、取り扱われた。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:6-7)
罪が戸口の隙間から私達を慕い求めながら見ている時、私達には二つの道がある。
その罪を「支配」するか、それとも、怒りや欲望の欲するままに罪に飲み込まれるか。怒りや欲望の欲するままに罪に飲み込まれるのは、ラクで、ある種の爽快感もあるが、その行く先は、呪いと放浪、死である。
罪を「支配」するのは、ちょっとした我慢と努力が必要だが、その行く先は、いのちと祝福である。
礼拝や奉仕で、思い通りに行かずに「怒り」がこみ上げた時、神と人の前から「顔を伏せたい」時は、罪が私達をのぞき見して、待ち伏せしている事を知るべきであり、その時私達はそれを支配しなくてはならない。罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事である。(2コリント10:5-6) すなわち、こみ上げて来た怒りを、湧き起こって来た欲望を、イエスキリストの名によって捕縛し、キリストの前に引きずり出して、宣言するのである。
「イエス様、この罪が、怒りが、欲望が、私に誘惑をかけて来ましたので、逮捕して、あなたの御前に引きずり出しました。どうか、あなたがこれを永遠の火の牢屋に入れ、私の事は、あなたが支配して下さい」と。
私達は日々、礼拝においても、日常においても、常に自分を御言葉の光に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。自分が為そうとしている事が、御心にかなっているかどうかをチェックする、最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
皆さんが成しているあの事、この事は、イエス様の名によって堂々と出来るだろうか?もし、そうでないのなら、それをとりこにし、キリストにあって支配すべきである。
カインとアベルは、何月何日に信仰の試験があるから、その日に備えて準備しておこう、などとは思っていなかったはずだ。信仰の試験は、盗人のように、ある日突然来るものだ。それは私達も同じである。
その試験の時、私達がどんなパフォーマンスをするかは、私達が日常をどんな心構えで過ごすかで決まる。
彼らが、主に、供え物を捧げた時、彼らが普段、どういう信仰態度であったのかが、如実に示された。
普段から、神と人とに感謝が無い者は、とっさに感謝は出せないものであるし、また、普段から怒りに身を任せている者は、怒ってはならぬ時に、それが制御できないものである。
カインは「主の前」という、決して怒ってはならない時に怒り、主に顔を背けるという尊大さが現れた。突発的な怒りが、彼を尊大にさせたのではなく、普段から怒りを制御しない事の、「霊的怠慢」が、露わにされ、その怠慢の刈り取りは、永遠に受けるのだ。それ故、私達は普段の心がけが大事である。
普段から、少しずつでも罪や怒り、欲望をキリストにあって制御し続け、良きものはキリストに捧げ続けるのであれば、それが積りに積もって、いざという時、正しい立ち居振る舞いが出来るのである。
皆さんはいざという時、カインのように振る舞うだろうか。それとも、アベルのように振る舞うだろうか。