メッセージ - 主への報告義務(申命記26:1-11)
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この章では、イスラエルが約束の地に入って、初めてその地の産物を収穫した時に為すべき事が命じられている。
その際、真っ先にすべきは「主への報告」である。
『あなたの神、主が嗣業として賜わる国にはいって、それを所有し、そこに住む時は、あなたの神、主が賜わる国にできる、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる所へ携えて行かなければならない。そしてその時の祭司の所へ行って彼に言わなければならない、「きょう、あなたの神、主にわたしは申します。主がわれわれに与えると先祖たちに誓われた国に、わたしははいることができました。」』(申命記26:1-4)
モーセがこの命令をしている時点では、イスラエルはそれまでの40年、種まきや収穫はしておらず、食べ物は、主から一方的に与えられるマナによって養われていた。
しかし、これからすぐ後に入ろうとしている約束の地では、食べ物は天から降って来たりせず、地の産物を得なくてはならない。
そこでは自分の畑をしっかり管理し、種蒔きや収穫をする必要はある。
しかし、その「乳と蜜の流れる地」「天の雨で潤っている地」に生じる産物は、良いものであり、豊かであり、実にバラエティに富んでいる。
忘れてはならないのは、その土地を得させて下さるもの、天の雨を降らせて下さるのも、豊かな実りを実らせて下さるのも、全て「あなたの神、主」がして下さる事だ。
だから、主の御言葉によく聞き従い、歩み続ける必要があるのだ。
それは、キリスト者が世に出て行って働く時も同じである。
世での仕事がいつも潤され、祝福されるためには、主の御言葉にいつも聞き従い、歩み続ける必要がある。
自らの手で働き、自分自身や自分の家をしっかり管理すべきであるが、それによって結ぶ実は、良いものであり、豊かであり、バラエティに富んでいる。
主に報告すべき言葉は、五節以降に記されている。
『わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。』(申命記26:5)
ここで、自分達の先祖は「アブラハム」とは言わせないで、「さすらいの一アラムびと」(KJVでは「A Syrian ready to perish」)と言わせている所が、興味深い。
自分達は元々、「いつでも滅びるための用意ができていた一さすらい人」であった事を、まず告白しなくてはならない。
バプテスマのヨハネは言った。
『自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9)
だから、悔改めにふさわしい実を結べ、と。
私達キリスト者も、キリストにつながる事をせず悔い改めの実を結んでいないとしたなら、いつでも滅びる用意の整ってる、一さすらい人に過ぎない事を、忘れてはならない。
『ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました。』(申命記26:6-10)
この告白をする事によって、主は、弱くどうしよもない自分達をいかに救い出して下さったか、取るに足らない自分達を、どんなに良くして下さったかを、思い起こさせている。
私達も以前は、神から切り離された者達であり、いつ滅ぼされてもおかしくはない状況であった事を忘れてはならない。
そのような状況から助けだされ、祝福され、幸いを得た時、私達もイエス様がどんなに素晴らしい人生へと導いて下さったか、どんなに素晴らしい事を為してくださったかを、告白すべきなのだ。
『そしてあなたはそれをあなたの神、主の前に置いて、あなたの神、主の前に礼拝し、あなたの神、主があなたとあなたの家とに賜わったすべての良い物をもって、レビびとおよびあなたのなかにいる寄留の他国人と共に喜び楽しまなければならない。』(申命記26:10-11)
主が私達をそのように祝福し、富ませて下さったからには、その主からいただいた恵みを、貧しい兄弟姉妹や、主の働き人達と、共にわかちあうべきなのだ。
そして、「共に喜び楽しまなければならない」と命じられている。
兄弟姉妹や主の働き人と共に、喜び楽しむ事、それが主の命令であるからには、私達は大いに主に感謝し、喜び、楽しむべきである。