メッセージ - 御言葉と一つとなれ(申命記27:1-8)
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ここでは、イスラエルが約束の地に入っていく際に行うべき事が命じられている。
『あなたがたがヨルダンを渡ってあなたの神、主が賜わる国にはいる時、あなたは大きな石数個を立てて、それにしっくいを塗り、そしてあなたが渡って、あなたの先祖たちの神、主が約束されたようにあなたの神、主が賜わる地、すなわち乳と蜜の流れる地にはいる時、この律法のすべての言葉をその上に書きしるさなければならない。すなわち、あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。』(申命記27:2-4)
イスラエルが主が約束して下さった地に入った際には、真っ先に、その地に御言葉の石を建て、これから住むべきその地に、御言葉を刻み付けなければならない。
イスラエルが、御言葉という岩の上に立って定住するためであり、また後々、子孫たちがそれを見て、自分達が主から特別な恩恵を受け、主の御言葉が委ねられている民である事を覚え、そして、そこに記されている御言葉を守り行うためである。
『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。』(申命記27:5-8)
祭壇は、主に捧げものをする所であるが、それは鉄器を使うなどした「人の手」は一切加えてはならない。
主への礼拝は、人が好き勝手に編み出した物事は一切許されておらず、ただ、主の側が提示した方法で捧げなければならないのだ。
この祭壇を建てたなら、まず、そこで燔祭(全焼のいけにえ)を捧げる事が命じられている。
全焼のいけにえは、その人自身が、全身全霊をに捧げる事を意味し、新しく入ったその地において、全てを尽くして主に仕える決意を新たにするのだ。
また、酬恩祭(和解のいけにえ)を捧げる事も命じられている。
和解のいけにえは、神と人と祭司とが同じ食物を食べて、神と人との和解を祝うものである。
以前の神に敵対する罪深き生き方は脱ぎ去って、今や新しい地において、神と和解している事を祝うのだ。
ところがイスラエルのその後の歴史は、神への不従順と処罰と悔い改めの繰り返しとなってしまった。
イスラエルだけでなく、人類全体も、罪と弱さを持っている故に、主が提示する御言葉を守り行う事が出来ないのだ。
そこで主は、人のために、新しい契約を立てられた。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
今、この新しい契約の時代を生きる私達は、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖霊が与えられ、その聖霊が私達の内に住み、私達に御言葉を思い起こさせ、御言葉にあって歩めるようにして下さった。
『助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』(ヨハネ14:26)
主イエスキリストを信じる信仰によって、私達は、御言葉なるキリストと一体となり、その時、もはや私達と御言葉とは別々ではなく、一つである。
『そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3-6)
そしてこの新しい務めは、石の板に記されている「文字に仕える務め」よりも、はるかに栄光のあるものである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。』(2コリント3:7-9)
だから私達は、いつも感謝と喜びの心をもって、この栄光の務めにあずかるべきである。