メッセージ - 「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」に陥る人(申命記28:36-48)
「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」に陥る人(申命記28:36-48)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 申命記
- 執筆 :
- pastor 2014-4-9 21:45
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御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者が受けるべき「のろい」の数々が示されているが、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人へののろいは、さらにひどくなって行く。
『主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。あなたは主があなたを追いやられるもろもろの民のなかで驚きとなり、ことわざとなり、笑い草となるであろう。』(申命記28:36-37)
こののろいは、何百年も後に現実のものとなってしまった。有名なバビロン捕囚である。
詩篇137篇は、一人のユダヤ人が、バビロンで余興のネタにされ、笑い草にされている様が、示されている。
モーセは、もし主の民が、主の御声に聞き従わない事を続けているなら、このようになってしまう事を、何百年も前から警告していたのに、人々はきっと、それらの御言葉を、何か大げさなおどしだとか、誰かが気まぐれに書いたものだとか、思っていたのかもしれない。実際、聖書をそのように評価している人は、いる。
しかし、そのように御言葉を軽んじている人には、実際に、これらののろいが振りかかってしまうのだ。
『あなたが多くの種を畑に携えて出ても、その収穫は少ないであろう。いなごがそれを食いつくすからである。あなたがぶどう畑を作り、それにつちかっても、そのぶどう酒を飲むことができず、その実を集めることもないであろう。虫がそれを食べるからである。あなたの国にはあまねくオリブの木があるであろう。しかし、あなたはその油を身に塗ることができないであろう。その実がみな落ちてしまうからである。
むすこや、娘があなたに生れても、あなたのものにならないであろう。彼らは捕えられて行くからである。あなたのもろもろの木、および地の産物は、いなごが取って食べるであろう。』(申命記28:38-42)
御声を無視し御言葉に反する人は、ますます収入が少なくなる。なぜなら、彼らが稼いだ労役の実は、全て、虫や他人に持って行かれてしまったり、立ち消えしてしまうからだ。
まさに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」状態である。
ちなみに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」の歌を作った石川啄木は、曹洞宗住職の家の生まれである。
働いても一向に暮らしは楽にならず、お金を借りる事はあっても、貸す事は無く、病弱で、早死にし、子を産んでも三代続かずに家が絶えてしまった彼の家は、残念ながら、偶像礼拝をしている人はこのようになる、という聖書の法則が、まさしく実体化してしまった形だ。
多くの日本人は、彼のこの歌に共感を覚える。働いても働いても楽にならない事が多いからだが、残念ながら、偶像礼拝をしている限り、聖書が示す呪いの法則から逃れる術は、ない。
唯一救われる道が、悔い改めてイエス様を信じる事だ。
私達はこの偶像崇拝の多い日本という国に使わされている者としてうめき、祭司として執り成し祈るべきだ。
『あなたのうちに寄留する他国人は、ますます高くなり、あなたの上に出て、あなたはますます低くなるであろう。彼はあなたに貸し、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となるであろう。』(申命記28:43-45)
これは12-13節の逆である。
主に聞き従わず、あくまで自分の好む道に固執するなら、人に借りるばかりで返す事が出来ず、いつも下っ端で、いつまでも上に上がる事はできないのだ。
なぜ、これらののろいが降りかかるか。
その理由は、既に何度も聞かされている通り、主の声に聞き従わず、主から命じられた戒めと定めとを守らなかったからである。(申命記28:15,45)
『あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。敵は鉄のくびきをあなたのくびにかけ、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:47-48)
物が豊かになる事を、祈り求める人は、多い。
しかし、たとえその祈りが聞かれて、物が豊かに与えられたとしても、その人に、主への感謝が無く、主を喜ぶ感性が無いなら、何もならない。
主は逆に、そのような人を、飢えさせ、渇かせ、裸にし、すべての物に乏しくし、敵に仕えるようになり、ついには滅ぼされる。
なぜなら、私達にとって重要な人生の目的は、持ち物が豊かになる事ではなく、全ての祝福の源であり、全てのいのちの源であられる主と、愛と喜びの関係を築く事だからである。