メッセージ - 主を恐れない者への裁き(申命記29:19-21)
礼拝説教メッセージ音声:主を恐れない者への裁き(申命記29:19-21):右クリックで保存
主の御声に逆らう人は大抵、「自分は大丈夫だ」という、根拠不明の自信があり、自分で自分を祝福し、自分の道を行くのだが、主は、そのような者がどんなに栄えていようと、あるいは元々貧しかろうと、同じように滅ぼされる。
『そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。』(申命記29:19)
この19節は、訳が分かれる所である。
潤った者も、渇いた者も、ひとしく滅びるのなら、自分は心のままに歩んでも大丈夫だ、というい風にも訳す事は出来るが、いずれにしても、そのような考え方の持ち主を、主は等しく滅ぼされる事には変わりはない。
御言葉を聞いても退けて、自分の道を行こうと自分を祝福するような者も、御言葉の堅苦しい所やのろいの所ばかりを見て、どのみち自分には滅びしか待っていないのだったら自分の好きに生きよう、と言うような者も、等しく、申命記28章で示されている呪いの明細が、待っている。
『主はそのような人をゆるすことを好まれない。かえって主はその人に怒りとねたみを発し、この書物にしるされたすべてののろいを彼の上に加え、主はついにその人の名を天の下から消し去られるであろう。主はイスラエルのすべての部族のうちからその人を区別して災をくだし、この律法の書にしるされた契約の中のもろもろののろいのようにされるであろう。』(申命記29:20-21)
バプテスマのヨハネも、当時の地位の高い宗教指導者に、躊躇なく言い放った。まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ、と。
外見や言っている事がいかに立派に見えても、悔い改めにふさわしい”実”を結んでいないなら、切り倒す斧は、木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、ことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまうのだ。
『あなたがたは言った、「神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない。」』(マラキ3:14-15)
主を恐れない者は大体、そのように豪語をする。
『そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。』(マラキ3:16-19)
主は、主を恐れない者の豪語も、主を恐れている人の言葉も、等しく聞いておられ、それら全てを、主の前の覚え書き(韓国語:主の記念の書)に記しておられ、それぞれ御言葉に応じて、報われる。
主に逆らう者に対して、真実と光で返す聖徒には、主は次の報いをして下さる。
『万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。』(マラキ3:17)
そうして主は、救いの器と滅びの器とを、区別されるのだ。(同19節)
裁きは、神の国から始まる。
彼らの中から、御蔵に納められる麦と、火で焼かれる毒麦とを選り分けられるが、成長し切る時までは、伸びるがままにされるのだ。
私達は、神に召しだされた者、聖徒として歩み、そのような者から離れるべきである。
『不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。・・・すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。・・・
実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。』(エペソ5:3-14)