メッセージ - 御言葉を理解した事で生じる責任(申命記29:22-29)
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『後の代の人、すなわちあなたがたののちに起るあなたがたの子孫および遠い国から来る外国人は、この地の災を見、主がこの地にくだされた病気を見て言うであろう。・・・すなわち、もろもろの国民は言うであろう、「なぜ、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい大いなる怒りは何ゆえか。」』(申命記29:22-24)
神の民であるなら、アブラハムの子孫であるなら、教会に通っているクリスチャンであるなら、もうそれで安心で、一切災いに遭わないかと思ったら、大間違いである。
既に何度も聞かされている通り、主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないなら、呪われ、災いが下されてしまうからだ。
そして、神の民に下される災いの有り様は、あまりにも非道いので、人々はそれを見て語り合う。
『彼らはその先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて、行って彼らの知らない、また授からない、ほかの神々に仕えて、それを拝んだからである。それゆえ主はこの地にむかって怒りを発し、この書物にしるされたもろもろののろいをこれにくだし、そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとをもって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである。』(申命記29:25-28)
実際、イエス様を十字架につけたすぐ後、イスラエルはローマ帝国に包囲され、最終的には極度の食料不足の故に凄惨を極め、ローマが進入した際には、イスラエルのあまりの惨状を見て、イスラエルには確かに神がおられる事を実感したそうである。
「主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないなら、呪われ、災いが下されてしまう」という法則は、万民も容易に理解できるシンプルな法則であり、まことの神を捨てる事が、どれ程罪深く、災いな事であるかを、神を知らない異国人でも実感するのだ。
イエス様も、同じ事を言っている。
『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。』(マタイ7:24-27)
イエス様の御言葉を聞いておきながら、それを守り行わない人は、やがて倒れるが、それは、ただの倒れ方ではない。ひどい倒れ方なのだ。
『なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。』(ローマ 2:11)
御言葉が与えられた民であるからこそ、御言葉を与えられていない民よりも、非道い災いに遭う事がある、というのは、確かだ。
なぜなら、せっかくいのちを与える尊い御言葉が与えられたのに、それをないがしろにし、守り行わないからである。
『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)
ある人にとって、御言葉のある部分が覆い隠されていて分からないのであるなら、それは主のものであり、その部分についての責任は生じない。
しかし、その部分がその人に光当てられ、あらわにされ、その人が理解したからには、それはその人に属するものであり、それを守り行うか、行わないかという責任が発生する。
そしてそれを守り行うなら、他の人には味わえない素晴らしい祝福があるが、守り行わないなら、他の人よりも深刻な状況に陥るのである。
御言葉を聞いて、理解したからには、それに従うか、従わないかという、二者択一の責任が生じ、聞いておきながらそれを守り行わない人に降りかかって来る災いは、大勢で助走つきで飛び込んで来るような、大々的なものであり、御言葉を知らない人に下される災いに比べて、その酷さや深刻さの度合いは、はるかに違う。
しかし、御言葉に聞き従い、それを守り行う人に与えられる幸いもまた、大勢で助走つきで飛び込んで来るような、大々的なものであり、御言葉を知らない人に与えられる幸いよりも、質においても量においても永続する面においても、はるかに大きいのである。