メッセージ - 主の御顔が隠されてしまう呪い(申命記31:14-18)
礼拝説教メッセージ音声:主の御顔が隠されてしまう呪い(申命記31:14-18):右クリックで保存
前回の箇所で、モーセは、主から命じられた事を全て書き記して、それを民の長と祭司に託し、7年ごとに全イスラエルに読んで聞かせるよう命じたが、その次に主は、モーセとヨシュアだけを会見の幕屋に呼び寄せ、イスラエルの民が何を考えており、これから何をしようとしているかをプライベートに示された。
『主はまたモーセに言われた、「あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを召して共に会見の幕屋に立ちなさい。わたしは彼に務を命じるであろう」。モーセとヨシュアが行って会見の幕屋に立つと、主は幕屋で雲の柱のうちに現れられた。その雲の柱は幕屋の入口のかたわらにとどまった。
主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう。』(申命記31:14-16)
人はうわべしか見れないが、主は、心を見られる。
イスラエルの民は、口では主の契約を守り行います、とは言ったものの、心の秘められた所では、実は、主を敬いもせず、御言葉を何とも思っていない事を、主はご存知であり、このまま行くなら、彼らはやがて主を捨て、外国の偽りの神々を慕い求めるようになる事を、知っておられたのだ。
『その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、彼らを捨て、わたしの顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。』(申命記31:17-18)
主の御声に聞き従わずに、そむいたとしたら、何が起きるか。
それは28章以降で、さんざん繰り返し言われていた通りである。主の御怒りを買ってしまい、必ず災いにあうと、彼らは何度も聞いていたはずだ。
それなのに彼らは、主の御言葉を軽んじ、いざ災いが降りかかった時には、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言うのだ。
自分の思いどおりに生きたい人とは、そのようなもので、主の言われる事も、人が言っている事も、心を留めないため、物事の的を射ず、労多くして功少ない人生であるばかりでなく、主からの災いが絶えないのだ。
主は、主を捨て去って、御言葉を破った者に対しては、「わたしの顔を彼らに隠す」と、2回も、「御顔をそむける」事の警告している。
主の御顔、それは、私達を照らして、いのちの祝福を与える太陽であり、また、私達の平和の源である。
以下の言葉は、有名な祝福の言葉であるが、「御顔を向ける」事を2度、言っている。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
主の御顔、それは私達には太陽であり、盾である。
主は、私達の身代わりとなって神に見捨てられ、「御顔がそむけられる」呪いを十字架上で味わった。(マルコ15:33-34)
本来、私達が父なる神と断絶されるべき所を、イエス様が身代わりとなって断絶され、それで彼にあって私達は神との和解を得た。
イエス様が十字架につけられていた時、同じ刑罰を受けていた罪人が、右と左にいたように、私達も、イエス様の十字架を前に、2つの道に分かれる。
すなわち、その中の一人の罪人のように、自分の罪は一切打ち捨てたままにして、ただ「自分を十字架から降ろして救え、救えないなら救い主ではない」「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか」などと言って、主を罵り続け、滅びに向かうか。
それとも、もう一人のように、自分の罪を認め、イエス様は生と死を超越した王である事を認め、個人的に彼に救いを求め、そうしてイエス様と共にパラダイスへ行くか。
パラダイスに行った罪人のように、自分の罪を認め、主に個人的に交わりを求め、主と共にパラダイスに行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!