メッセージ - 女達への密かな顕現(マルコ16:1-8)
※本日は不備がありましたため、音声配信は無く、テキスト配信のみとなります。申し訳ございません。
メッセージ:女達への密かな顕現(マルコ16:1-8)
イエス様の復活の後、4人の福音書記者は、実にバラエティに富んだ違った表現でイエス様の表れを記している。
私達、復活の後の時代を生きる者も、バラエティに富んだ表現で自由に復活の主を伝える事ができる。
聖書は、一つの完全に整合性の取れた文章として与えられたものではなく、多くの人達に現れた神のご性質を、それぞれの人が書き記した集大成である。
神が福音を「宣教」という愚かさのうちに伝えられる方法をあえて取って下さったため、実に色々な人間によるバリエーションに富んだ印象と表現で、イエスというお方を見、知る事が出来ているのである。
もし神様が完全に整合性の取れた一連のことばを示されたのであれば、ここまで色々な面から見る事はできなかったであろうし、伝道方法も1か0かといった実に堅苦しいものとなった事だろう。
一人一人が主と出会った仕方も、主から頂いた印象も、導かれ方も、それぞれ違う。
しかし、主が”良きお方”である事は皆が一致している事である。
私達はその主を、それぞれ頂いた環境において、それぞれ頂いた賜物において、自由にイエスというお方の良きご性質を伝えていくべきである。
今日は主の復活の後、女性達へひそかにご自身を現した次第を、色々な角度から見ていきたい。
マタイ28:8-10
この女性達は復活の知らせを受けた後、弟子達の所に行った。
彼女達はイエス様と出会った時の主の第一声は「おはよう」(直訳:喜びあれ)である。
復活の第1声が日常の最も一般的な挨拶言葉である事は興味深い。
もし私達が死んで蘇った時、親しい人に初めて声をかけるとしたなら、どんな言葉をかけるであろうか。
しかし主にとって、復活とは日常の当然の事であったのだ。
ルカ24:9-12
ルカにおいては、彼女達は引き返して弟子達に話したものの、弟子達は信じず、ペテロが墓に走って行った所までは簡潔に書いている。
ヨハネ20:1-18
ヨハネにおいては、女性が墓に行って帰ってきた次第は簡潔に書いており、ペテロとヨハネが墓に行って帰ってきた次第を詳細に書いている。
ペテロよりヨハネのほうが早く走ったとか、ヨハネは躊躇して入れずペテロは堂々と入ったとか、理系のルカにとってはどうでも良いような場面も生き生きと表現している。
弟子達はイエスがいないのを確認し、そのまま帰ってしまうが、マグダラのマリヤは主と親しく出会う事が出来た。
主は女性達に密かに出会い、弟子達には現れなかった。
マグダラのマリヤとの対面においても、彼女は最初イエスだとは分からず、庭師だと思ったほどに、イエスの様子はごく普通の人であった。
復活とは劇的な場面ではあるが、その復活のイエス様はあまりに普通であったので、気付かなかったようである。
女性達は、主が十字架を背負ってゴルゴダの丘に行った時も十字架を負う手伝いもできず、イエスの仲間だと言われて捕らえられる事さえもされず、ただ一緒に泣いてついて行き、十字架と死の場面も何も出来ず、ただそこにいただけであった。
彼女達が内密に、ひそやかにイエス様と対面できたのは、いかなる場面においてもイエス様と”一緒”におり、イエス様の名前を否まなかったからである。
この終わりの時代においても、イエス様と密やかに対面できるのは、ただ泣いてついていく事しかできなくても、いつでもイエス様と”一緒”におり、イエス様の名前を否まない者である。
イエス様の名を最後まで否まず、いつも彼と一緒におり、彼と密やかに出会う事の出来るみなさんでありますように、イエスの名前で祝福します!