メッセージ - 十字架上の七つの言葉 2 (詩篇22:1-18)
十字架上の七つの言葉 2 (詩篇22:1-18)
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イエス様は十字架上で7つの言葉を語られたが、それらは私達キリスト者にとって、とても大切なものである。
前回はその内の3つを学び、それらによって私達は執り成され、パラダイスへの道が開かれ、主を信じた人は神の家族としてひとつに結び合わされる事が分かった。今回は、残る4つの言葉を詳しく見て行きたい。
イエス様が十字架上で語られた言葉の四つ目は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27:46)、これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
彼の呼びかけは「父よ」ではなく「わが神」である事に注目したい。
イエス様は「神の御子」という座からは下りて、私達と同じ「人」となり、人として苦しみ、刑罰を受けられ、神から見捨てられた。本来、全ての人がそれらを受けるべきなのに、主が身代わりとなられたのだ。
キリストは、私達の身代わりに刑罰を受けられ、それに引き換え私達キリスト者は、キリストの身代わりに神の子としての特権が与えられ、キリストの義が付与され、神をアバ父と呼ぶ事の、神の子の特権が与えられたのだ!(2コリント5:21)
イエス様が十字架上で語られた言葉の五つ目は、「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)である。
この言葉が語られたのは、神に対してでも人に対してでもなく、苦しみの極限状態にあった彼自身の口から、おのずと出てきた言葉であり、そしてそれは、「聖書が全うされるため」である。
キリストは十字架上で、それこそ全身全霊が焼きつくされるような苦しみを味わったのだが、人々がそれを聞いた時、ヒソプにつけて差し出したのは、甘いぶどう酒ではなく、変質してしまった、酸いぶどう酒だった。
『彼らはわたしの食物に「毒(ロシュ:ヒソプ)」を入れ、わたしの渇いた時に酢を飲ませました。』(詩篇69:21)
酸いぶどうは、イスラエルを表している。神は甘いぶどうを望んだのに、酸いぶどうがなってしまったため、そのぶどう畑を荒れさせ、踏みつけ、滅びるにまかせられる事を、イザヤは預言した。(イザヤ5:1-7)
キリストは、だめになってしまったイスラエルを受けられ、イスラエルが受けるべき「滅び」を、受けられた時、「すべてが終った(テテレスタイ)」(ヨハネ19:30)と言われた。これが、十字架上の六つ目の言葉である。
この言葉は、イスラエルの祭り・大贖罪日に、大祭司が至聖所に入って、全イスラエルの贖罪を成し遂げ、出てきた時に発する言葉でもあり、完成した、完済した、成就した、満たした、終わった、等の意味がある。
キリストは神と人との間に立つ大祭司であり、父なる神と、人との双方に対し、「成就した」と語られた。
イスラエルだけでなく、全世界の人が受けるべき呪いと罰を受け尽くし、罪の罰金を全額払い、私達を責め立てていた債務証書を無効とし、人も全被造物も、十字架の血によって、神と和解させられたのだ。
そしてイエス様が十字架上で語られた七つ目の言葉は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)である。こう言って息を引きとられた。全てを成し遂げた後、父なる神に全てを委ね尽くしたのだ。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人としての性質をもって自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた。それ故、神は、キリストを高く上げ、全ての名にまさる名をお与えになったのだ。こうしてキリストは、全権威の上に立つお方となられた。
それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが膝をかがめ、全ての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白し、父なる神がほめたたえられるためである。(ピリピ2:6-11)
私達は、キリストが十字架上で語られた言葉のゆえに、執り成され、パラダイスへの道が開かれ、主にある兄弟姉妹は一つの家族として結び合わされた。そしてキリストは、神に見捨てられ、焼き尽くされるような苦しみを受けられ、そうして全てを成就した後、霊さえも父なる神に委ね尽くし、息を引き取られた。
このキリストを信じ、主とする者には、十字架上で成就された、全ての良き恩恵を受ける事が出来る。
このようにして成された、キリストの尊い十字架上での贖いを、私達は、ないがしろにしてはならない。
その尊い贖いによって、罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子、聖なる国民とされた事を喜び感謝しつつ、この地上での歩みを全うしていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!