メッセージ - 復活の後の主の現れ(ルカ24:13-35、マルコ16:9-13)
復活の後の主の現れ(ルカ24:13-35、マルコ16:9-13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2011-1-26 7:18
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한국어예배 韓国語通訳有
主イエス様は復活の後、マグダラのマリヤに現れ、女性達に現れ、エマオに向かっている途中の二人の弟子達にも現れた。
主ご自身がこの二人に現れ、彼らは長らく一緒に歩いていたのに、なんと、ずっと彼だとは気付かなかったのだ。
イエス様の復活以降、弟子達や主の挙動に、不思議に思える事が色々ある。
主は突然現れたり、消えたりされる。
また、イエス様がいるのにイエス様だと気付かない弟子達が実に多い。
また、ご自身を直接的な言葉で言い表す事はなさらず、そのご性質をそっと示し、気付くまで待たれるという、遠回りのような事をされる。
実は、復活以降のイエス様の現れの記述は、現代を生きる私達に対する主の現れ方と、全く同じである。
復活以降のイエス様は、遠くの場所へ一瞬で移動したり、鍵の閉まった部屋に突然現れたりしているが、二人でも三人でもイエスの名の元に集まる所へ、どんなに鍵がかかっ
ていても、どんなに遠くにいても、そこに主は来られる。
それは現代も同じであり、我々も体験している所である。
さて、エマオの途上の二人である。彼らはエルサレムから約11.5キロの道のりを歩いていた。
道すがら主ご自身が近づかれるのだが、彼らには目が塞がれていて、主だと分からなかった。
現代の我々も同じ経験をする。
主ご自身が近づいてきているのに、彼はもしかしたら、あまりに目を惹かない姿形であったり、もしかしたら小さかったり、くさい臭いを発している事さえあるかもしれない
。
私達が日々の心配事や、宗教的な話をしている所に近づいて来て、加わってくるかもしれない。
その時あれこれと自分の見解を申し述べたりするが、主は「ああ、頭の悪い心の鈍い者らよ」と言って諭し、聖書からご自身について解き明かしをなさるかもしれない。
かの二人は、仲間の女達が御使いと出会った次第や、御体が無かった次第を伝えると、主ご自身がお叱りになった。
弟子達はびっくりしただろう。なにしろ、今までは”我々が”教える立場だったのに、突然叱って、彼が教える立場になったのだから。
この二人に「私がイエスだ」と言えばカンタンに済むはずなのに、なぜ、そんなに遠回りな事をされたのだろうか。
私達が拠りすがるべきは、もはや目に見え手に触れる人間イエスではなく「聖書」である事を、示されていたのである。
ここで彼が語った内容は、「モーセおよび全ての預言者から始まって、全聖書の中で自分自身について書かれてあること」である。(27節)
主の復活の後、私達が寄りすがるべきは、目で見たり手で触れたりできる人間ではなく、イエス様ご自身たる御言葉である。
弟子達は目的地に近づいたが、主はその先へ行こうとしていた。
そこで彼らは強いて一緒にいるようにと押し留めた。それは、このお方の語る聖書に、心が燃えていたからである。
エルサレムにおいて、あるいは目の前の現実においては騒動があっても、聖書を詳しく説かれる私達は、心が燃えるのだ。
食事の席に着いた時、主ご自身がパンを裂いた。
この場合、ホストである弟子達がパンを裂くはずだったが、パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さったのは、主である。
その時彼らはハッとしたに違いない。
この経験、かつてあった。
5千人以上の前で、4千人以上の前で、十字架の前の晩において、パンを取り、祝福して裂き、手渡してくださったのは、主であった。
パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さるのは、主のご性質であった。。。
この時、彼こそ主イエス様だと分かったのである。
私達も、福音書を読み、御言葉を読んで、主のご性質は知っている。
主は腹の必要を満たすパンだけでなく、物質的・金銭的・精神的な必要を満たすパンを取り、祝福して裂き、私達に手渡してくださる。
そして渡された時、主が確かにそこにおられた、と気付くのである。
主は、御言葉を説き証し、沈黙の行動によって、静かにご性質を示されるのだ。
聖書が解き明かされる時、私達の心は内側で燃やされていき、主ご自身が確かにこの旅路に共にいてくださったと知るのである。
この弟子達は主だと知って、夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、夜であっても、主の良きお方である事を伝えずにはおれないのだ。
日常の内に隠れているイエス様に気付き、彼によって御言葉を解き明かされ、豊かに養われ、パンを受け取り、確かに主が共におられたのだと分かり、彼を伝えずにはおれな
い皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!