メッセージ - 主は打ち、また癒やす(申命記32:36-43)
礼拝説教メッセージ音声:主は打ち、また癒やす(申命記32:36-43):右クリックで保存
『主はついにその民をさばき、/そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、/つながれた者もつながれない者も、/もはやいなくなったのを、主が見られるからである。』(申命記32:36)
主は懲らしめられるが、いつまでも罰するという事はしない。主は、人を打ち叩く事を趣味とはされず、むしろ立ち返って幸いを与える事を、望まれる。
『わたしは確かに、エフライムが/こう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲らしめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように/懲らしめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた。』
主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。』(エレミヤ31:18)
人が心から悔い改め、主に立ち返るなら、主は再び憐れみの御手で包み、癒して下さる。
心から悔い改める、とは、このエフライムの嘆きのように、自分がして来た事の罪深さを知り、悲しみ、ももを打ち叩くような恥ずかしさを覚える事である。
もし自分がして来た事を理解せず、それを恥じたり悲しんだりという事が無いとするなら、再びその罪を繰り返すものだ。
『そのとき主は言われるであろう、/『彼らの神々はどこにいるか、/彼らの頼みとした岩はどこにあるか。彼らの犠牲のあぶらを食い、/灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、/あなたがたを守らせよ。今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、/傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。』(申命記32:37-39)
人が主を離れ、それぞれ好き勝手な神々により頼み、何の恩恵も無いどころか、災いばかりが降され、さんざんな目にあった時、主は、その人に思い起こされる。
あなた方が頼みとして来た神々は、一体、どこにあったのか。
結局、わたしこそが唯一の主、唯一の神ではなかったのか。思い出してみなさい、と。
ハンナも、同じ賛美をしている。
『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。
地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。』(1サムエル2:6)
主は確かに、一時的に懲らしめられる。しかし、再び憐れんで下さる。それは、私達の中から高ぶりや罪の愚かさを取り除くためである。
主は確かに、一時的に痛めつけられるが、再び癒やして下さる。それは、主に仕える事の幸いと謙遜さを学ばせるためである。
そして、懲らしめの中から学ぶべき事を学んだ時、主は再び高くあげ、もう二度と、私達を不従順による滅びには向わせないようにされるのだ。
『わたしは天にむかい手をあげて誓う、/「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめくつるぎをとぎ、/手にさばきを握るとき、/わたしは敵にあだを返し、/わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、/わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、/敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、/その敵にあだを返し、/その民の地の汚れを清められるからである。」』(申命記32:40-43)
主は、民を懲らしめるために、敵をも用いられるが、もし彼らが、神の民に勝利した事でいい気になり、勝利させて下さった主を恐れず、主の民を打ち叩くを止めないなら、主はその者達をも必ず罰されるのだ。
以上が、イスラエルの民が約束の地に入る直前、モーセが死ぬ間際に、イスラエルに主が与えられた歌の全容であるが、この内容は、キリストにあって神の民とされた私達にも、深く関わりのある事である。
主は、主をないがしろにする者に対しては、災いをもって懲らしめるが、悔い改めるなら癒やし、再び愛の御手で包まれる。
そして主の敵に対しては、必ず復讐される。
私達は、決して、主をないがしろにしたり、主からの恩を仇で返すこと無く、初めから終わりまで、主を敬い、御言葉を守り行い、災いに遭わされる事なく、いつも祝福が注がれる者でいたい。