メッセージ - ルベン、ユダへの祝福と、除外されたシメオン(申命記33:6-7)
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6節から、モーセからの各部族への祝福に入る。
「ルベンは生きる、死にはしない。しかし、その人数は少なくなるであろう。」(申命記33:6)
長男ルベンへの祝福は、たとえ人数が少なくなろうとも、生きて、死なない事である。
それがこの部族への祝福なのか、と、驚くかもしれないが、それには訳がある。
ヤコブも死ぬ前、12人の子たちを呼び寄せ、彼らが今後どのようになるかという預言的な言葉を残したが、ルベンへの言葉は以下だった。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。』(創世記49:3-4)
ルベンは、沸き立つ水のように奔放で、父のそばめと寝る、という、性的な罪を犯したため、彼の長男の権利は剥奪されてしまった。
この部族は、死海東岸付近に相続地が与えられたが、その部族は後の歴史で、冴える事は無かった。
『ユダについては、こう言った、/「主よ、ユダの声を聞いて、/彼をその民に導きかえしてください。み手をもって、彼のために戦ってください。彼を助けて、敵に当らせてください。」』(申命記33:7)
ユダへの祝福は、主がユダの声を聞いて下さり、主が助け、ユダのために戦って下さり、彼の元に彼の民を導き返して下さる事である。
創世記49章のヤコブの預言では、ユダは獅子の子として勝利し、支配者の杖は離れる事は無いという、素晴らしいものだったが、それに比べると、このモーセの祝福は見劣り感が否めない。
しかし、このモーセの祝福は、ソロモン王以降の時代、イスラエルの他の部族がこぞってユダから離れ、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して後のユダに対しては、実に的確な執り成しの祈りであると言える。
さて、実は、この申命記33章には名が出てこない部族、モーセの祝福の祈りから除外されてしまった部族がいる。それはシメオン族である。
シメオンとレビは、創世記34章のシェケムの事件で見せた暴虐な行動の故に、ヤコブは以下のように言った。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
また、民数記25章にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受けて、皆が悲しみながら、自分達の中から悪を取り除こうと、悔い改めの集会をしている最中、その目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む、という事をした。
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだ。
シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であった事が伺える。
そのためか、シメオン族は荒野の40年で、イスラエル12部族中、最も減少率の激しい一族であった。
このように、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもないシメオン族だったが、新約においては、シメオンの名を持つ人には良い人物が多く、黙示録では、贖われたイスラエル12部族の一つとして、シメオンは復活している。
イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊が宿っており、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。
シメオン、その名の意味は「聞く」である。
申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。
モーセの祝福から漏れてしまった事で、シメオン族は、きっとあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。