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メッセージ - ふるさと眺めて昇り行く日まで(申命記34:1-12)

ふるさと眺めて昇り行く日まで(申命記34:1-12)

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 申命記
執筆 : 
pastor 2014-5-17 6:39

礼拝説教メッセージ音声:ふるさと眺めて昇り行く日まで(申命記34:1-12):右クリックで保存

モーセ五書の最終章である。
モーセは、主から与えられた御言葉を全て伝え尽くし、従順と不従順、祝福とのろいとをはっきり示し、将来彼らが主から離れて災いに遭った場合に備えて歌まで残し、そして、イスラエル十二部族のひとつひとつを名指しして祝福し、そうして為すべき事を全て為し終えて、いよいよ、先祖たちの列に加えられるべき時が来た。

『モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。・・・そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」』(申命記34:1-4)

あらかじめ主から示されていた通り、モーセがこのピスガの山の頂から見える約束の地を見渡す時、彼は息を引き取って、先祖たちの列に加えられる。
彼は百二十歳といえど、目はかすまず、まだまだ健強である。
全ての民が見守る中、彼が一人、ピスガの山の頂へと一歩一歩進んで行くその足取りは、しっかりしていたであろうが、その心はどうであっただろう。

彼はかつて、主に、「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしたが、主は言われた。
「おまえはもはや”足りている”。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。」(申命記3:25-28)

モーセは、主に願った事がぴしゃりと断られ、ああ、自分だけが約束の地に入れないのだ、と、やるせない悲しみを握りしめながら、山を登っていったのだろうか?
そうではない、と、私は思う。
むしろ、走るべき行程を走り終え、為すべき事を為し尽くし、これからは、栄光の冠が待っているという希望に満ち足りた思いで、ピスガの山を登っていったのではないか、と。
そのように思う根拠は、ヘブル書にある。

『信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』(ヘブル11:24-27)

彼は、不従順による楽しみよりも従順による苦難を、地上のものよりも天のものを、目に見える過ぎ去っていくものよりも、目に見えない永遠のものを望み見る「信仰者」だった。
だから彼は、ピスガの山から目で見える乳と蜜の流れる地よりも、目で見る事の出来ない、さらに優れた「天の故郷」をこそ、彼は望み見ていたのではなかろうか。

主が言われたのは、「おまえはもはや”足りている(満ち満ちている)”、この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26)だった。
モーセ、おまえが相続すべきものは、もっと優れたものだ、もう、満ち足りている、だから、その事を尋ねる必要さえ無いのだ、というニュアンスなのかもしれない。

モーセは確かに、ヨルダンを渡る事も、民を約束の地に導き入れる事も許されていなかった。
しかし実は、ちゃっかりと約束の地の中にモーセがいる記事もある。イエス様の時代、モーセは神々しい光の内に、預言者エリヤと一緒に現れ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる「ご最期:エクソダス:出エジプト」について、イエス様と一緒に話している場面をご存知だろう。(ルカ9:28-36)
モーセは、肉の体では約束の地に入れなかった。
しかし、より優れた栄光の体で、イエス・キリストという真の約束の地へと、入る事が出来たのだ。

『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:13-16)
私達も、モーセやアブラハムのように、目に見えるものではなく見えないもの、地上のものよりも天のもの、古び廃れていくものよりも、永遠のものを望む「信仰者」であるからには、信じた通りのもの、すなわち、罪のゆるしと体のよみがえり、永遠の命という、永遠の栄光ある「約束の地」を得るのである。

モーセが荒野で導いて来た民は、モーセがピスガの頂から仰ぎ見たあの大地で、わずか二世代で主を裏切り、その地は彼らに対して乳と蜜の流れる地ではなくなり、さらに後の時代にはバビロン捕囚の憂き目に遭い、イエス様の時代以降には、イスラエルの領土は異邦人に奪われ、約1900年間もの離散の憂き目に遭う。
安息の地は、地上に見える形のものではない。
『イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。』(ルカ17:20-21)
『もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』(ヘブル4:8-11)

『こうして、主の「命令」によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。』(申命記34:5-7)

この「命令」は「ペー」、「言葉」とも「口」とも訳せるもので、ユダヤ人の伝説によれば、モーセは、主の口、すなわち、主の接吻によって死んだ、と教えられているようである。
主は人に、いのちの息吹を吹きこまれ、そして、取られる。
『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」』(詩篇90:3 モーセの祈り)

私達のいのちは、主のものであり、主が与えて下さり、主が取って下さる。
そして、信仰者の行き先は、天であり、その事は大いに希望であり慰めである。

『静けき祈りの 時はいと楽し
聳(そび)ゆるピスガの 山の高嶺(たかね)より
故郷(ふるさと)眺(なが)めて 昇り行く日まで
慰(なぐさ)めを与え 喜びを満たす』(賛美歌310 静けき祈りの 3番)

モーセは、その走るべき道のりを、しっかりと走りぬいた。
語るべき御言葉を語りつくし、預言し、祝福し、そうして、主ご自身の接吻によって、天に挙げられた。
モーセのように、しっかり後継者へ御言葉を語り伝え、為すべき霊的子育てをなし、執り成しの祈りと祝福をしつつ、天に上げられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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