メッセージ - 既に与えられている所へ踏み出せ(ヨシュア記1:3-4)
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人は、初めから強く雄々しくあるわけではない。
強くなるにはそれなりの鍛錬が必要だし、雄々しくなるには、それなりの根拠が必要である。
聖書の中の、ヨシュアの言動は、まことに強く雄々しいが、彼はどのようにして強さを身に着け、何を根拠にして雄々しくなれるのだろうか。
彼が雄々しくなれる根拠、それは、主にある。
そして彼の強さは、日々、御言葉を信じ従順する事によって、鍛え上げられたものである。
『あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。』(ヨシュア記1:3)
主はモーセに、そこを既に「与えている」と約束した。
しかし、その約束されたものを、実体として受け取るには、主の言葉を信じ、実際にそこへ行って、「足の裏で踏」むという行動が必要である。
主の約束という「真理」の中では、その地は、既に彼らに「与えられている」。
なのに「現実」は、そこには強大なカナン人達が占拠しており、城壁は彼らに敵対して高くそびえ、城門も堅く閉ざしている。
このように、御言葉の「真理」と、「現実」とが敵対している時、人は、二通りの行動を取る。
すなわち、現実を取って、御言葉の真理を捨てるか。
それとも、御言葉の真理を信じて、現実に戦いを挑むか。
40年前のイスラエルも、全く同じチャレンジが与えられていた。
向きを変えて出発せよ、その地に行って占領せよ、そこは既に、あなた方に与えている、と。(申命記1:6-8)
しかし、40年前のイスラエルは、その地には強大な敵が住んでいる「現実」を見て、自分達はそこに入っていけないではないか、主は自分達を憎んでいるのではないか、だから、その地の住人を用いて自分達を殺させようとしているのではないか、と、「真理」とは真逆の「不信仰告白」をし、そうして、彼らの信じた通りに、彼らは滅んでしまった。
それから40年後のヨシュア達も、あの時と全く同じチャレンジを受けたのだが、ヨシュア達は見事、御言葉の真理を信じ、戦いを挑み、そして信じた通りに、真理で示されていた通りの祝福を勝ち得た。
私達は、いかにすれば「現実」を「真実」で塗り替えるのか。
それは、信じて、行う事によって、である。
信仰の通りに実行するなら、約束されていたものを勝ち取る事ができる、という原理は、現代も、将来も、全く同じである。
主は御言葉において、既に、様々な良き祝福を約束しておられるが、それを実体として手に入れるためには、まず、私達の側が信じてアクションする必要があるのだ。
『あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。』(ヨシュア記1:4)
主が約束された地の範囲は、大川ユフラテからヘテびとの全地にわたる、広大な地域である。
ところが、イスラエルの歴史では、今に至るまでも、大川ユフラテまでを領地とした事は、いまだに無い。
なぜなら彼らは、ある程度占領したら、もうこれでいいや、と、途中で妥協してしまい、信仰の戦いをする事を、止めてしまったからだ。(士師記1章)
主が示した占領すべき地を、いつまでも攻めず落とさずに残しておくと、その未占領地域はかえって敵対する力を得、ゆくゆくは仇となって、攻め寄せて来るものだ。
手付かずの宿題を先延ばしにしていると、日毎にそれらの存在が重荷となり、ついにはその人を責めるまでになってしまうように。
だから、主が示されたなら、すぐに、その通り実行しないと、ゆくゆくはそれが敵対して攻めて来ることとなる。
皆さんは、主から示されている為すべき事を、途中で止めて、妥協してはいないだろうか。
御言葉を信じて、それに服従し、実行する時、その「服従」は、要塞をも破る力のあるものとなり(2コリント10:4)、そうして信仰によって日々、小さな要塞を打ち破って行くなら、皆さんの自由な領域は、日々、拡大して行くものである。
引き篭もっている人は、実体の無い恐怖、すなわち、社会に出るなら、自分はよくわからない事で怒られてしまう、親以外の大人はみんな怖いものだ、何をするにもあざけられ、恥ずかしい思いをさせられてたりするものだ、などと恐れ、いつまでも狭い領域の中で窮屈に暮らしているものだ。
皆さんも、霊的に狭い領域の中で、窮屈に暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に聞き従って、進み行くならば、あっさりと勝利するものだ。
なぜなら、主が共にいて下さるからだ。
引き篭もっている人が、少しずつ勝利を積み重ねていくなら、仕事も出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションできるようになり、それを楽しむようになり、今まで狭い領域だけで過ごしていたのが、より広い領域へと踏み出すようになり、外国にさえも自由に行き来できるようになり、ますますその人の「領域」は増し加わって行くものだ。
しかし、主が「行け」と言われている領地を勝ち取っていく事に、妥協してしまったり、いつまでも恐れて引き篭もっているなら、何の進展も無く、ただ若さと時間ばかりを浪費し、意欲も萎えてしまい、その分、敵に力を与えてしまうのだ。