メッセージ - 求める人にはご自身を現して下さる主(ヨシュア記2:8-14)
礼拝説教メッセージ音声:求める人にはご自身を現して下さる主(ヨシュア記2:8-14):右クリックで保存
ヨシュア記の多くは、カナンでの戦闘と土地分与の記録に多くの文量を割いているが、この2章については、遊女ラハブと2人の斥候のやり取りに終始している。
この遊女ラハブが取った行動と、その行動の結果、彼女とその家族とが得た救いの有り様は、私達異邦人の救いの有り様とよく似ており、それは新約を生きる私達にとって重要だからであろう。
『ふたりの人がまだ寝ないうち、ラハブは屋上にのぼって彼らの所にきた。そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。』(ヨシュア記2:8-10)
ラハブは、非常に重要な情報を、斥候に提供した。すなわち、この地の民は皆、イスラエルを恐れ、震えおののいているというのだ。
しかもそれは、彼らがエジプトから出てきた時から、すなわち、その40年も前からなのだ。
40年前、ヨシュアとカレブを除いた斥候10人は、臆病の霊にとりつかれ、この地について悪い情報をもたらした。
すなわち、カナンの地は堅固で強大で、自分達がいなごのように見えた、と言って、全イスラエルを迷わせ、荒野の放浪へと陥れたが、実のところ、あの時から既に、カナン人は、エジプトを徹底的に懲らしめた主と、主がついておられるイスラエルの民を恐れ、震えおののいていたのだ。
あの時からカナン人は震えおののいていたのだから、40年前、恐れずに進み行っておれば、やすやすと占領できたのに、不信仰のゆえに、荒野で無駄に40年の時間を費やし、また無駄に命を落としてしまったのだ。
『わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。』(ヨシュア記2:11)
ラハブと、エリコの他の住人との決定的な違いは、主の圧倒的な力と権威を目の当たりにし、それに対してどのように応対したか、である。
エリコの住人は、主の為されたわざを聞いて、恐れおののいた。
しかし彼らは、城門を固く閉ざし、高くそびえ立った先祖由来の城壁を頼りにし、神とその民に対抗する事にして、探りに来た神の国の使者を探し出し、剣や槍をもって捕らえようとした。
一方ラハブは、その神の国の使者に、憐れみを乞うた。
『それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。』(ヨシュア記2:12-13)
傍から見れば、敵地の真っ只中にいる二人の斥候こそ、ラハブに命乞いをするはずの立場なのに、逆に、彼女のほうが、命乞いをしている。
彼女のその態度は、真実をついている。
なぜなら、彼女が告白した通り、「神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるから」である。
言ってみれば、エリコの王は、全宇宙を支配している”社長”である主に敵対して、社長が何も言わないのをいい事に好き放題をして、全社に不利益ばかりをもたらしている不採算部門の課長のようなもので、それにひきかえ、この二人の斥候は、社長から遣わされた監査役のようなものだ。
ラハブは、その権威構造を正しく理解していたため、この二人をかくまい、助けを求めたのだ。
ラハブと、この二人の斥候とを、うまく引き合わせたのは、主である。
彼女は、この、神の民の噂を聞く度に、願っていたのではなかろうか。この城壁の壁に囲まれた町で、身売りをするような日々から救われ、出来る事なら、このうわさの神の民に入りたいと。
それで主は、彼女の心の叫びを聞かれ、彼女の家に二人の斥候を遣わされたのではないか。
なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるお方だからだ。(2歴代誌16:9)
主は、岩砂漠の中に立てられたエリコの城壁の壁に住んで、身売りをしながら生活していたラハブの声を聞かれたように、現代、コンクリート砂漠の壁の中で、身売り同然の過酷な労働をしつつ搾取されているような現代人達をさえも、御目をもって見渡し、救いを求めて神に立ち返ろうとしている人を見い出し、その人のところには、神の国からの使いを遣わして下さるのだ。
私達が救われた時の有り様も、そのようではなかっただろうか。なぜこのような私に、と。よくぞこんな私に目を留めて見出して下さったと、不思議だったのではなかろうか。
かつてのエリコの住人のように、不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、なんとなく認知して、その滅びから救われたい、と思っている人は多い。
しかし、救われるためには、ラハブのような決断が必要である。
私達を造られた、全能なる主を認め、救われたいと願い求めるなら、主はどこにでもおられるお方である。主は、必ずその人に答えて下さる。
そして、イエス・キリストを救い主として受け入れるなら、あなたも、あなたの家族も、救われるのである。(使徒16:30)