メッセージ - 見たことも体験した事もない道(ヨシュア記3:5-13)
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『ヨシュアはまた民に言った、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」。』(ヨシュア記3:5)
主が御業を行われるためには、まず、私達の側が身を清めなくてはならない。
身を清めるとは、自分の中にある主の「聖」に相応しくない肉的な事、特に、性的な事柄を離れ、身についてしまった心と体の汚れを洗いきよめ、主と向き合うために心と体の備えをする事だ。(出エジプト記19:10-15)
聖別して下さるお方は主であり、主が私達を「聖別」して下さるためには、私達の側がまず、主の定めを守り行わなければならない。(レビ記20:7-8)
私達が「聖なる者」となるために、自らを整えて、主の前に進みゆくなら、主は私達をさらに聖なる、尊い者として下さる。
『主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。あなたは契約の箱をかく祭司たちに命じて言わなければならない、『あなたがたは、ヨルダンの水ぎわへ行くと、すぐ、ヨルダンの中に立ちとどまらなければならない』」。』(ヨシュア記3:7-8)
主は、新しい指導者・ヨシュアを、イスラエルの民や全ての国の人々の畏敬の対象とさせるために、大いなる事をなさる。
彼らは、今まで入ったことの無い道を進み行こうとし、今まで体験しなかった事を、体験しようとしている。
その道を進み行くには、自分の中の、現状維持したいという思いや、未知の事への恐れを、主に対する信仰によって征服させる事が必要であり、その事は、自らの心を御言葉へと服従させる事によって、可能である。
『ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。』(ヨシュア記3:9)
ヨシュアが民にまず言った事、それは、近づいて、主の言葉を聞け、である。
信仰はそもそも、聞く事から始まる。
種を蒔いていない土地は、当然のように、何の実りを実らせず、ただ雑草しか生じて来ないように、御声を聞こうとしない人は、当然のごとく、何の良き実りをもたらさず、神と人に対して雑草のようなものしか生じさせないのだ。
『そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。・・・全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。』(ヨシュア記3:10-13)
水がうず高く積み上がっている様は、おそらく、皆さんは今まで見たことが無いだろう。
イスラエルの民も、40歳以下の人達は、見たことが無かったはずである。
しかし彼らは、かつて、主が紅海の水を分断し、海の中のかわいた所を通らせ、エジプトは逆に水の中に沈めた事を、伝え聞いて、知っている。
それと同じ体験を、これからあなたがたもする、そして、その不思議なしるしを体験する事によって、その不思議を可能にした主は、これから攻め入ろうとしている敵の全てを、必ず追い払って下さるのだ、と、ヨシュアは民を励ました。
主が「進み行け」と言われるなら、信頼して進み行くべきであり、主が「とどまれ」と言われるなら、信頼して、留まるべきである。
しかし、主の言葉の内容を聞いてみた時、それは不可能だ、ばかげている、と言って退け、自分の考えつく手段や方法に頼って行くなら、ますます悪いことになって行く。
『主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。』(イザヤ30:15-17)
私達は、御言葉の内容に敵対するのような思いが沸き起こった時、それをとりこにし、服従させて、その上で、御言葉を守り行わなくてはならない。
そうでないと、砂の上に建てられた建物のような、こっぴどい倒れ方で、倒れてしまう。
信頼して御言葉を守り行うなら、力を得、救われるのだ。