メッセージ - 背負うべき十二の石(ヨシュア記4:1-10)
礼拝説教メッセージ音声:背負うべき十二の石(ヨシュア記4:1-10):右クリックで保存
主が流れを止めてくださったヨルダン川を全イスラエルが渡り終えた時、主は言われた。
『民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』。』(ヨシュア記4:2)
この十二人は、ひと度渡り終えた川の中に再び戻って、石を取って来なければならない。
いつ川が激流に戻るか分からないような中、戻って行く十二人も、ずっとそのまま川の中に留まっていた祭司たちも、多少の恐れはあったかもしれないが、それでも、そのようにする必要があった。
『これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。』(ヨシュア記4:6-7)
彼らがわざわざ川床へ戻って、石を持って来なくてはならない理由は、それを子々孫々への「しるし」とするためであり、「水が、主の契約の箱の前で、せきとめられた」事を記念とするためである。
「契約の箱」、それは英語の聖書では「アーク」であり、原文では、ノアの「箱舟」と同じ単語が用いられている。
だからここは、「水が、主の箱舟の前で、せきとめられた」とも訳す事が出来る。
実際、ノアの時代も、全く同じように、死の大水は箱舟の前には無力で、箱舟の中にいた人々は、水に流される事なくいのちを長らえた。
主は、滅びの川から救い出して下さる。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。』(詩篇18:2-6)
そのように主は、死の水、滅びの水がいかに押し迫ろうとも、主に信頼する人を、いつの時代でも、必ず救い出してこられた。
『イスラエルの人々はヨシュアが命じたようにし、主がヨシュアに言われたように、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、ヨルダンの中から十二の石を取り、それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた。ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。箱をかく祭司たちは、主がヨシュアに命じて、民に告げさせられた事が、すべて行われてしまうまで、ヨルダンの中に立っていた。』(ヨシュア記4:8-10)
彼らが運んできた石は、担ぐほどの大きなもので、記念として残るものとなった。
現在の私達も、自らを死へと明け渡し、死のただ中から復活のしるしを”担いで”来なくてはならない。
私達が担いで行くべき復活のしるしとは、「十字架」である。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ9:23-24)
自らのしたい事を、死へと明け渡し、キリストに服従させる日々は、死の連続かもしれない。
しかし、日々、そのようにして自分の十字架を負って、主に明け渡して行くなら、必ず復活がある。
そして日々、世の何者にもまさる平安と守りと必要の満たしがあり、やがては、永遠にしぼむ事の無い栄光を受けるのだ。
パウロも、日々自分を死に明け渡し、多くのいのち達を、死からいのちへと引き戻し、信仰の記念碑を日々積み上げていった。
『兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。・・・
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
』(1コリント15:31, 52-55)
私達も、イスラエルの12人の代表のように、パウロのように、日々背負っていくべき十字架をしっかり背負うべきだ。
その積み重ねは、信仰のしるしとなって、後に続く子々孫々へと語り継がれていくのだから。