メッセージ - 約束の地での必須事項 - 割礼(ヨシュア記5:1-9)
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いよいよ、イスラエル全軍団はヨルダン川を渡り、モーセが入る事の許されていなかった、あの、約束の地に入った。
その地に足を踏み入れて、真っ先に主が命じられた事は、割礼であった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。』(ヨシュア記5:2-3)
神の民であるならば、割礼は避けて通れない。
なぜなら以下の契約が、主とアブラハムの子孫との間で締結されているからである。
『神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。・・・
こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。』(創世記17:9-14)
契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めてその契約は有効化されるが、神がアブラハムと契約を交わした際に、その契約に同意したというサインに相当するものが「割礼」である。
だから、人々の側が割礼のしるしを身に受ける事無しに、祝福の約束は、有効化されないのだ。
割礼とは、男性器の包皮を切り取るものである。
男は自力で支配し、自立して治める者であるが、その、男性のシンボルたる部位の肉を切り捨てる事、それが、神の民・イスラエルのしるし。それは非常に象徴的である。
イスラエル、その名は、イスラエル十二部族の父祖・ヤコブが、神の使いと格闘し、腰の近くのもものつがいを打たれた後に与えられた「神と戦う」「神に支配される」という意味の、ヤコブに新しく与えられた名である。
つまり、自分の力に頼らず、ただ神の力に頼り、神の支配の内に生きる事、それが、神の民「イスラエル」のアイデンティティであり、また、私達キリスト者のアイデンティティでもある。
『ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記5:7-9)
もし、ヨシュアの軍団がこの時、割礼を受けていなかったら、どうなっていたか。
おそらく彼らは、敵の前にも神の前にも立つ事はできず、滅ぼされていただろう。なにしろ、あのモーセでさえ、割礼抜きに主から命じられた働きに入ろうとしたなら、殺されそうになった程なのだ。(出エジプト記4:24-31)
自分の内にそびえ立つ”男”を、滅ぼし尽くす事なしに、肉を切り捨てる覚悟と痛みを経る事なしに、主の働きに入る事は、出来ないのだ。
私達キリスト者も、信仰によってアブラハムの子孫とされたからには、割礼は避けて通れない。
もっとも、私達キリスト者が受けるべき割礼は、刃物による肉の割礼ではなく、御言葉の剣によって受ける「心」の割礼である。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって「心」に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28)
ここの「心」とはカルディア、すなわち思い、意志、感覚である。
肉の割礼は、感覚の敏感な所を切り取るために、相当の覚悟と痛みを伴うが、同じように私達も、自分自身を御言葉の剣の前に差し出し、自分の肉的な思いや感情を切り取られる時には、覚悟と痛みを伴う。
しかし、それを通り越した先には、エルシャダイ(全能の神)の神が、いつも共におり、いつも守って下さる祝福が待っている。
アブラムは割礼を受ける時、アブラハム(多くの者の父)という名に変えられ、いのちを産まない者が産む者となり、多くの国民の父とされる約束が与えられ、また、サライは、サラ(王女)という新しい名に変えられ、多くの人々、多くの王達の母となり、素晴らしく良き土地を永久の所有として与えられる約束が与えられた。(創世記17章)
それと同じ祝福を、キリストにあって心の割礼を受ける私達にも、約束されているのである。