メッセージ - 黙るべき時と語るべき時(ヨシュア記6:8-15)
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『ヨシュアが民に命じたように、七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主に先立って進み、ラッパを吹き鳴らした。主の契約の箱はそのあとに従った。武装した者はラッパを吹き鳴らす祭司たちに先立って行き、しんがりは箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。』(ヨシュア記6:8-9)
ヨシュアは主の軍の将から命じれれた言葉を、そのまま民に実践させた。
しかし、人の目にナンセンスとも思える事を、七日間も、六十万の民に実践させ続ける事は、簡単な事ではない。
もし、わずかな人数でも「こんな事に意味があるのだろうか」と、信仰に疑いを投げかけるようなつぶやきをするなら、会衆全体に、その不信が伝染してしまうとも限らない。
実際、四十年前はそうだった。
僅かな人々の、不信なつぶやきや、肉欲の煽りなどが、多くの民に伝染し、結果、イスラエルの民全体がその思いに汚され、荒野での四十年の放浪となってしまった。
そこでヨシュアは、以下のように命じた。
「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない。」(ヨシュア記6:10)
ヨシュアは、よく知っていたのだ。”群衆”というものの性質を。
そして、くちびるの言葉は、いかに「火」のように災いをもたらすかを。
『舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:6)
だから、群衆に一言も口を聞いてはならないと命じたその命令は、実に的確なのだ。
私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、たとえ疑う心があったとしても、唇という境界線を越えずに命じられた事を淡々と行うなら、行った結果の実は必ず実るのである。
この時、絶え間なく聞こえていたのは、イスラエルが行進する足を踏む音と、祭司たちが吹き鳴らす雄羊の角笛の音だけであった。
これは、私達が信仰の戦いをする時に取るべき態度でもある。
悲観的になりそうな時、御言葉がどうしても信じられない時、先行きが見えず不信仰に陥りそうな時こそ、人間的な言葉を放つ「口」は閉ざし、ただ、小羊キリストの栄光を誉めたたえる賛美だけを響かせつつ、「足の裏で踏む所はことごとく与えた」という御言葉を信頼しながら、その場所を足踏みするのだ。
もちろん、何でも黙れば良い、というものではない。
真理の言葉を語らなくてはならない時は、黙っていないで真理を語るべきである。
ヨシュアとカレブは、四十年前、彼ら以外の斥候十人が放った、神様が約束して下さった地に対する悪いうわさを煽って、民全体を不信仰へ傾いた時、彼等は衣を裂きながら約束の地の良き事を叫び、主が共におられるから恐れてはならない事を叫んだ。
結果的には、民はそんなヨシュア達を殺そうと言い出し、そして、まさに殺されそうになったその時、主の栄光が現れ、彼らは打たれずに守られたが、民を扇動した10人は打たれ、扇動されて不信仰に陥った民は、四十年の間に荒野で死に絶えた。(民数記15章)
主の御言葉に反する不信仰な言葉や、人間由来の言葉が唇から出てきそうな時は、黙っているべきだが、語るべき真理の言葉を語らないとしたら、その真理は逆に自分自身を焼き尽くす火となってしまうのだ。
『わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう」と。わたしは黙して物言わず、むなしく沈黙を守った。しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。』(詩篇39:1-4)
不真実がはびこる時は、真理を語るべきであり、正しくない事がはびこる時は、正しい事を語るべきであり、人間語がはびこる時は、御言葉は語るべきである。
もし語った真実な言葉を、相手が拒否するとしたなら、彼を扱って下さるのは主ご自身である。
たとえ、不信仰な相手が六十万であろうとも、神は真理を曲げない二人のほうを守り、不信仰な六十万のほうを滅ぼされるのだ。
『七日目には、夜明けに、早く起き、同じようにして、町を七度めぐった。町を七度めぐったのはこの日だけであった。』(ヨシュア記6:15)
七は、完全数である。
御言葉に従順するべき日数を、従順によって満たした時、霊の世界では、物事が動く準備が整えられたのである。
その時が満ちるまでの間、見た目がいかに変わりが無いように見えたとしても、御声に聞き従い続けるなら、見えない世界では、確実に物事が進行しているという事を忘れてはならない。