メッセージ - 父の日礼拝 – 聖書における父親像(エペソ6:1-4)
父の日礼拝 – 聖書における父親像(エペソ6:1-4)
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本日は父の日である。そこで今日は、聖書の中では父は本来、どのような存在であるのかを学びたい。
父は一家の長である。なぜなら聖書には、子は父母を敬う事が命じられており(出20:12)、夫は妻の頭であると定められているからである。(エペソ5:23) それ故、父は、家族の長として、家族を霊的に正しく治める義務が、主から与えられており、家族もそれをわきまえて、父に接するべきなのだ。
聖書の中で、父親は、主の教育と訓戒によって子供を育てる事が命じられている。
『父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。』(エペソ6:4)
近年、日本では「友達親子」の風潮により、親子は上下関係より、友人のようなフラットな関係が良いという価値観が蔓延していたが、その結果、親の権威が失墜してしまった。年頃の女の子が、公の場で、平気で「おやじキモい」などと言っているのは、海外の人が聞けば驚き呆れるし、一昔前ではあり得ない事だ。
模範とすべき父親像が不在のまま、誤ったガイドラインで親の世代も子の世代も育ってしまった結果である。
この「主の薫陶と訓戒」は、御言葉というガイドラインに添って行うものであり、御言葉を知れば知るほど、主の教育は正しく行う事が出来、一家の長たる確信と権威が増し加わって行く。
父の最たる模範は、父なる神であり、ガイドラインは御言葉だ。それを自覚する一家は、祝福される。
天の父なる神の愛は、センチメンタルな愛ではなく、ストロングな愛である。
近年の日本の家庭で、特に無くなっているのは、子にむちを加える事である。それは今や体罰という名のタブーとなっているが、聖書は明確に、子から愚かさを除くためには、むちを加えるように記されている。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
愛には痛みが伴う。その痛みを乗り越えた向こう側の、さらに優れたいのちを得るために、一時の痛みを辞さない愛を、父なる神は、ひとり子を与えて下さった愛によって示して下さった。
アブラハムもそうである。今の日本では、アブラハムはあまりいい父とは言えないかもしれない。なにしろ、一人息子のイサクを縛って、薪の上に載せ、刃を向けたのだから。しかし、そのひとり子の死を辞さないほどの御言葉への従順が、イサクのその後の人生に、この上ない祝福をもたらしたのだ。
また、祝福される家庭となるために、父親は何より主を恐れるべきであり、一家の中で祭司となるべきある。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、信仰の父祖達は、例外なく主を恐れ、一家を祝福する祭司であった。
大富豪であるヨブは、子供達の誕生日の祝いが一巡する度に、彼等を呼び寄せ聖別することにしていた。
『彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。』(ヨブ1:5) このように、いつも子を覚えて祝福する一家は、大富豪一家の特徴である。
また、ダビデも家族を祝福していた(2サムエル記6:20)が、妻の一人ミカルは、彼を心の中でさげすみ、軽んじたため、一生、子が無かった。(2サムエル記6:16-23)
また、ノアの息子・セム、ハム、ヤペテのうち、ハムは、恐れ敬うべき父の天幕に入って行き、そこで見つけた父の裸をじっくりと見、兄弟たちに言いふらし、来て一緒に見るよう招いたため、父から呪いを受けてしまった。それに対しセムとヤペテは、父の裸を見ないよう後ろ向きに歩いて裸を覆ったため、祝福を受けた。
以上のように、祝福をさずける立場である「父」を蔑んだり、軽んじたり、その秘密をあげつらって、他に言いふらすような者は、子々孫々呪われるが、父を敬う人は、子々孫々とも祝福される。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
子にとっては、父母を敬うことが幸福の秘訣であり、妻は夫に従う事が御心であり、父は、父なる神に見習い、御言葉のガイドラインに従って一家を正しく治める事。それが、その家が繁栄する秘訣である。