メッセージ - 一度の敗北で学ぶもの(ヨシュア記7:1-9)
礼拝説教メッセージ音声:一度の敗北で学ぶもの(ヨシュア記7:1-9):右クリックで保存
イスラエルがエリコに大勝利できたのは、主が導いて下さったからであったが、イスラエルは、この大勝利で早速慢心した。
『しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた。』(ヨシュア記7:1)
奉納物、すなわち主に捧げ尽くすべき聖絶のものについて、実際に罪を犯したのは、アカンという一人物であったが、「イスラエルの”人々は”奉納物について罪を犯した」と記されている通り、これは、イスラエル全体の罪となってしまっている。
聖絶すべきものをイスラエルの宿営に招き入れるなら、たとえ、彼ら自身が気づいていないとしても、宿営全体が聖絶の対象となってしまうのだ。
そうなってしまっている以上は、たとい敵がどんなに弱くても、その前に立つことはできない。
イスラエルの民は、自分達が”負け戦モード”にある事に気づいていないまま、主に伺いを立てもせずに、さっさと次の戦いに出て行ってしまった。
もし、あらかじめ主に伺いを立てていたなら、主は必ず、何かしらの形でそれを示していたはずであるが、ヨシュアは主に伺いを立てるのではなく、斥候に情報収集させた。
『ヨシュアはエリコから人々をつかわし、ベテルの東、ベテアベンの近くにあるアイに行かせようとして、その人々に言った、「上って行って、かの地を探ってきなさい」。人々は上って行って、アイを探ったが、ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。』(ヨシュア記7:2-3)
前回、エリコ攻略の際に、二人の斥候がもたらした情報は、「ほんとうに”主は”この国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています。」(2:24)と、エリコの城壁や装備や兵員の数ではなく、霊的状態を報告した。
それでヨシュアは勝利を確信したはずだ。
しかし、アイを偵察した斥候達の報告は、相手の大体の数と人間的な評価しかなく、しかも「人々をほねおらせるには及ばない」と、人の事は思っていても”主”を思っていない、主を綺麗に抜かしてしまっているものだった。
アイの住人は、男女合わせると、約一万二千人であり、男だけなら六千人、それなら戦闘できる人員は、およそ二、三千人、と算出したのかもしれない。
それだから、こちらも、二、三千人で十分だ、と。前回あれだけ大勝利したのだから、今回は、この数でも十分行ける、と。
『そこで民のうち、おおよそ三千人がそこに上ったが、ついにアイの人々の前から逃げ出した。アイの人々は彼らのうち、おおよそ三十六人を殺し、更に彼らを門の前からシバリムまで追って、下り坂で彼らを殺したので、民の心は消えて水のようになった。』(ヨシュア7:4-5)
三千人が戦いに行き、こちらの被害は三十六人。戦死者は、およそ百人に一人という事になる。
一回の戦闘の被害としては、少ない方にも見えるが、しかし、この敗北の意味は非常に大きい。
『ヨシュアは言った、「ああ、主なる神よ、あなたはなにゆえ、この民にヨルダンを渡らせ、われわれをアモリびとの手に渡して滅ぼさせられるのですか。われわれはヨルダンの向こうに、安んじてとどまればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルがすでに敵に背をむけた今となって、わたしはまた何を言い得ましょう。カナンびと、およびこの地に住むすべてのものは、これを聞いて、われわれを攻めかこみ、われわれの名を地から断ち去ってしまうでしょう。それであなたは、あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか」。』(ヨシュア記7:7-9)
あの、強く雄々しいはずのヨシュアが、なんと、ヨルダンを渡らなかったら良かった、カナン人は自分達を断ち去ってしまうだろう、主はなぜそのように仕向けたのですか、と、彼とは思えないような弱音を吐いている。
イスラエルの軍団は、まだ六十万以上残っており、しかも、三千人にたいし三十六人の被害である。
ヨシュアのこの嘆きようは、大げさすぎはしないだろうか。
いや、ヨシュアは主のご性質を良く知っていたからこそ、ここまでうろたえたのだ。
主が共におられる戦いには、負けなどあり得ない。それが、負けてしまった。
ということは、主は今や、自分達にはおられない。主が共におられないという事は、自分達はただ、滅びるしかない。それをヨシュアは良く知っていたため、そこまでうろたえたのだ。
『そのためヨシュアは衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、ちりをかぶった。』(ヨシュア記7:6)
鈍いの霊的指導者なら、自分達の被害はまだまだ少ない、と言って、さらに兵員を増やし、いたずらに敗北と犠牲者を増やしていただろうが、一度の敗北の、三十六人の犠牲者が出た時点で、あれだけうろたえ、悔い改めの集会をさせたヨシュアはさすが、と言える。
私達も、失敗をした時、主に見捨てられたように感じる事がある。
しかし、そのような時こそ、御言葉と御約束の前に、ひれ伏すべきであり、ちりをかぶって自らを低くし、自分達の内にこそ、何か間違いは無かったかを点検すべき時である。
エリコに勝利したのは、人々の口から余計な言葉を止めさせ、ただ黙々と主の軍の将の指示どおりに動いたからだった。
勝利の秘訣は、御声に聞き従い、御言葉に従順する事にある。
もし、御声に聞き従わず、御言葉に従順しないなら、主は沈黙し、彼らがいかに十万や二十万でアイに対抗したとしても、負けは確定しているのだ。
『ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。』(イザヤ30:17-18)
人は、過去の経験や、うわべの人数、規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
だから私達は、特に、大成功を収めた時や、大勝利した後こそ、気をつけるべきなのだ。