メッセージ - 呪いの宣言しか無い律法のつとめ(ヨシュア記8:33-35)
礼拝説教メッセージ音声:呪いの宣言しか無い律法のつとめ(ヨシュア記8:33-35):右クリックで保存
『こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。そして後、ヨシュアはすべての律法の書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関する律法の言葉をことごとく読んだ。』(ヨシュア記8:33)
イスラエルの民はゲリジム山とエバル山とで半分に分かれ、一方は祝福を、一方は呪いを宣言した。
その具体的に宣言すべき内容は、申命記27章に記されている。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)
その宣言の内容には十戒の内容もあるし、その他の律法の細則的な内容もある。
しかし興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、宣言する内容には「何々の者は呪われる」という「呪いの宣言」ばかりで、祝福の宣言が一つも無い。
この事は、律法の性質を非常によく表している。
律法は、365の「するな」と、248の「せよ」から成り立つ、613の戒律の集大成であり、これを守り行う人には祝福が、守り行わない人には呪いがあるが、これを全てを守る事のできる人間は、誰一人としていない。
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:10-11)
御言葉が刻まれる石を建てるのは、「呪い」を宣言するエバル山であるが、結局、律法は人に「罪あり」と示すのみで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。(同22節)
それ故、律法という石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)
キリストは、呪いの中に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、キリストを信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。
なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。
この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのだ。