メッセージ - バビロンの終りの時(ダニエル5章)
礼拝説教メッセージ音声:
第一礼拝全体(日本語) メッセージ:バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存
第三礼拝メッセージ説教(日本語・韓国語)バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要
ベルシャツァルがバビロン最後の王だった。
王は宴会を開き、宴もたけなわの時、聖なる神殿にあった金銀の器を用いて、妾たちと酒を飲もうとした。
本来、聖なる場所にあって聖なる事に用いられるべき器が、悪い王とその取り巻きの娯楽のために使われ、さらに彼らは金や銀、鉄など、色々な材料で作られている神々を褒め称えた。(ダニエル5:1-4)
この聖なる器は、今の終りの時代においては、私達キリスト者になぞらえる事ができる。
黙示録17章において、バビロンを象徴する大淫婦が登場し、彼女は獣にまたがり、杯に聖徒達の血を注いで酔いしれる情景が出てくる。
バビロンにおける神々は、金や銀など黙示録18:11-13 における様々な商品が取引されて築き上げられる富であり、やり取りされる商品には人間さえも含まれているが、いずれ大淫婦は滅ぼされ、取り巻きの商人達も富を失って泣く日が来る。
ダニエルの時代、聖なる器物がはずかしめを受けているその時、超自然的な指が現れ、堕落した世にあって、まことの神に忠実に仕えたダニエルにしか読むことの出来ない字が記された。(ダニエル5:5-9)
その字の中の「メネ」は数えるという意味で、「テケル」は量りにかけられるという意味である。
私達は人生の歩みを数えられ、神様に量られたいのちの時間を生かされている。
いのちの量りが満ちた時、神様の目方に足りるか足りないかを、査定される。
ベルシャツァル王は量られた結果、足りないと見なされ、パルシン、すなわち王国は分裂し引き裂かれてしまい、彼はその夜のうちに殺されてしまい、同じ日にダニエルには偉大な位が与えられた。
今の時代は、有形無形の様々なものが売り買いの道具としてやり取りされ、人の労働時間は切り売りされ、一部の金持ち達は、恋愛も忠誠心も全て金で買えると思っているような、人間が商品として扱われている時代である。
ノアの洪水やカナンの聖絶も、バビロンの滅亡も、人間の高慢がこのように、極みに達した時に来た。
邪悪な者が、聖なる者を蹂躙する期間は、いつまでも続かず、時が量られている。
「メネ、メネ・・・」は、高慢な者や時代の王だけに来る言葉ではなく、全ての人達に、あてはまる事である。
もし私達が数えられ、量られたら、絶対に足りず、裁きの座において裂かれるしか無い。
しかし、イエス様が我々の代わりに、罪人に数えられ(メネ)、邪悪な者に銀で量られ(テケル)、十字架上で裂かれ(パルシン)て下さったから、その裂かれた肉体を食べた私達は、まことの命を得る事ができた。
私達は元々、命の木から分離していたが、イエス様の裂かれた肉体を通していのちの木を得る事ができた。
主の内にいる私達は、決していのちの木から分離される事は無く、裁かれる事もない。
しかし、信じない神に逆らう悪の大盤振る舞いの人達には、メネ、メネは、そのままの言葉であり、王は、その通りの死を遂げた。
私達は、ベルシャツァル王になり得るし、王の取り巻き商人にもなり得るし、ダニエルにもなり得る。
裁きの日は思いがけない時に来て、主イエスの名を持っていない者は、裁きにあう。
主にある者でも、いつまでも主は来ないと思って、聖徒達を打ち叩いたり、酒を飲んだりして、どんちゃん騒ぎをしているようなら、思いがけない時に主は来られ、そのような者達を厳しく罰する。(ルカ12:42-46)
終りのしるしが現れている今、私達は常に目を覚まし、私達の身代わりにメネ、テケル、パルシンされて下さったキリストにしっかり留まるべきである。
主が戸口に近づいている事をますます意識して、ダニエルのように忠実に日々を過ごし、かの時には栄光を受け、バビロン王の滅びを見る皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011