メッセージ - シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23)
シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-8 2:55
礼拝説教メッセージ音声:シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23):右クリックで保存
相続地を二番目に”くじ”によって受けたのは、シメオン族であった。
『シメオンの子孫の嗣業は、ユダの子孫の領域のうちにあった。これはユダの子孫の分が大きかったので、シメオンの子孫が、その嗣業を彼らの嗣業の中に獲たからである。』(ヨシュア記19:9)
彼らはユダ族の領地のまっただ中に相続地を受けており、聖書地図を見ると、ユダ族の領地の中に、あたかもドーナツの”輪”の部分のような形で立地している。
これは、イスラエル十二部族の父・ヤコブが、次のように預言した通りである。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
シメオン族の次に割り当てを受けたのは、ゼブルン族であった。
『第三にゼブルンの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域はサリデに及び・・・、そしてカッタテ、ナハラル、シムロン、イダラ、ベツレヘムなど十二の町々と、それに属する村々があった。これがゼブルンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:10-16)
ヤコブの彼らに対する預言を見ると、「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13) となっているが、しかし彼らが実際に得た領地は、海沿いではないし、また、シドンからもかけ離れている。
そして、未だにゼブルン族が海沿いの地を勝ち取ったという歴史は、存在しない。
このような、預言の”未成就”は、どうして起こるのか。
それは、預言を受けた本人が、主から与えられた「こうすれば、こうなる」という条件を無視し続けたり、あるいは、祝福に見合わない行動をし続けたりする時、そのようになってしまう。
例えば、主はヤロブアムに対して、ダビデのように長く続く堅固な王家を建てる約束を与えられたが、それは実現せず、結局、彼の二代目の時に、一族郎党皆殺しにされてしまった。
なぜなら、彼はせっかく主から祝福の約束が与えられたというのに、それに見合わない事を行い続け、主を怒らせ続けたからだ。
彼は、金の子牛像を礼拝対象にさせたり、勝手に考案した月日を礼拝の日として定たりと、主の忌み嫌われる事をし続けて止めず、預言者からしるしを伴う警告が与えられても、なお悔い改める事をしなかったのだ。
主は元々、アブラハムに、エジプトからユーフラテス川に至るまでの広大な地を与えると約束されたが、実際のイスラエルは、それら全てを勝ち取っていく行動を、しなかった。
ゼブルン族も、海沿いの地、シドンを攻めて行く事を、ついぞしなかったため、結局、彼らにはヤコブの祝福は実現しなかったのだ。
『第四にイッサカル、すなわちイッサカルの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた・・・。その境はタボル、シャハヂマ、ベテシメシに達し、その境はヨルダンに至って尽きる。十六の町々と、それに属する村々があった。』(ヨシュア記19:17-22)
イッサカルは、ヤコブから以下の預言をもらっている。
『イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。』(創世記49:14)
彼はその預言の通り、マナセ族の二つの領地という”羊のおり”の、ちょうど間に相続地を得ている。
イッサカルは五男であるのに、そのはるか下の弟、十一男であるヨセフの子・マナセの相続地の間に住まわせてもらっている形となっている。
また、シメオンは次男であるのに、これまた四男の弟であるユダが勝ち得た多くの中から、余り物をもらった形となった。
ゼブルン族も、本来的には海沿いの領地を勝ち得るはずが、それをせずじまいになってしまった。
現代を生きるキリスト者も、何もせずに、ただ手をこまねいているような人は、かろうじて、他の積極的な聖徒の傘下で養われるしかない。
与えられている賜物、与えられている力は積極的に活用し、地上において多くのタラントを稼ぎ、永遠の天においては、さらに多くを任される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!