メッセージ - アブラム、そしてアブラハムへ(創世記17章)
アブラム、そしてアブラハムへ(創世記17章)
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前回、アブラムとサライは、世の手段や肉のやりくりによって主の約束の未成就分を果たそうとする過ちを犯し、そうしてイシュマエルが生まれてからの13年は、聖書は何の記録も無く、霊的空白の年月が流れた。
人が肉の力で何かしようとするなら、人の肉が力尽きるまで、神は沈黙されるのだ。
肉のやりくりによって、何かを為し続ける限り、主からの語りかけも霊的前進も無く、ただ、気力・体力の隆盛と衰退の繰り返しの、無味な時間が過ぎていく。その間、一見無駄とも思える事の繰り返しの時期に見えるが、永遠の観点から見れば、「肉に対して絶望する」という大きな意味のある時期である。
イスラエル民族にも荒野の四十年を通らせたように、神は度々、人の肉の力を一切削ぎ落とすため、膨大な時間を用いられるが、アブラムも、子を産むという事に対しては、全く絶望的になった九十九歳になったその時、神は、エルシャダイ、すなわち「全能の神」として現れた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。」(創世記17:1)
以前学んだように、ここの「歩みなさい(ハーラフ)」の要求は、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられている。
いよいよアブラムの肉は力尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事であった。私達も、自ら主体的に、自覚的に、自発的に主と共に歩もうとする時、主の御前に「全き者」となり、全く新しい人生、新しい名が与えられる。
「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。」(5節)
アブラム(אַבְרָם)の名に、ハーラフの「ハ(הָ)」が付与され、アブラハム(אַבְרָהָם )となり、サライ(שָׂרַי)も、語尾が「ハ(ה)」に変換され、サラ(שָׂרָה)となった。私達も、自分の名に、すなわち自分のアイデンティティに、「主と共に歩む事(ハーラフ)」を加えるなら、全く新しく、まったき者へと、造り変えられるのである。
そして主は、人の側が守るべき「契約のしるし」をも与えられた。それは、割礼である。(9-14節)
契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めて契約は有効化されるが、このサインに相当するものが割礼であり、「割礼を受けない者は民から断たれる」と言われた程、神の民には必須のものである。
割礼は、男性器の包皮を切り取る行為である。男は支配し治める者であるが、その男性のシンボルたる部位の「肉を切り捨てる」事が、神の民のしるしとされるのは、実に象徴的だ。
キリストにあってアブラハムの子孫とされたからには、男も女も、どの国民も、「割礼」は避けて通れない。
もっとも、私達が受けるべき割礼は、御言葉の剣による心の割礼で(ローマ2:28)、十字架によって自分の肉を殺す事であり、神から独立して歩む”男の性質”はそぎ落とし、神と共にハーラフする者となる事だ。
その先には、主と共に歩む事の祝福が待っている。肉において私達を責め立てていた債務証書は全て無効化され、真にアブラハムの子孫としての祝福にあずかるようになる。もし、相変わらず世に属しているなら、相変わらず、不利な債務証書を世からつきつけられ、世の手順に従って歩まなければならない。
主はサライにもサラという新しい名を与え、彼女は国々の母、もろもろの民の王の母となると約束されたが、アブラハムにとって、この約束は、思わず笑ってしまう程、突拍子も無い内容だった。(17節)
彼は、イシュマエルが長らえるようにと言ったが、主は明確に言われ、イシュマエルの事かと思った。
「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。」
アブラハムは最初、笑った。神様、もうそこまでしなくていい、という、無気力の笑いである。しかし神は、有り得なさ過ぎて笑ってしまう程の事であろうとも、成してしまう程、エルシャダイ(全能なるお方)であり、たとい人がどんなに御胸を破壊する行動をしても、それを上回る真実で、人の不真実を上塗りして下さるのだ。
最初は聞いて信じきれず笑ってしまったアブラハムだが、彼は信じた。その証拠に、早速割礼を実行した。
それも自分自身だけでなく、息子のイシュマエルをはじめ、家の奴隷や僕など、少なくとも300人以上の男性に対し、その日の内に、割礼を受けさせたのだ。かなりの度胸のいる事を、その日の内に実行したのだ。
こうして、割礼によって肉をそぎ落としたアブラハムには、全能なる主の御力が働く土壌が整えられた。
同様に私達も、神から離れて何事かをなそうとする自分の「肉」を十字架につけ、神と共に歩む備えをするなら、無気力に笑うしか無かった私達の人生にも、全能なる主の力が働く土壌が整えられるのだ。