メッセージ - 現実を真実で飲み込め(ヨシュア記23:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:現実を真実で飲み込め(ヨシュア記23:1-11):右クリックで保存
主がイスラエル全部族に相続地を与えられてから、既に多くの日が経ち、ヨシュアも老人になった。
しかしヨシュアには、心配事が残っていた。
イスラエルの民には相続地が定められて久しいのだが、彼らは、その領地内に生き残っている先住民を滅ぼし尽くす事をせず、そのまま放置している所が、まだまだ多いからだ。
そこでヨシュアは長老や民の長達を呼び寄せて、言った。
『見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。』(ヨシュア記23:4-5)
ヨシュアは確かに、くじによって、この地を彼らに与えた事を神と人との前で宣言したが、現実的には、その中の一部では、相変わらず、住んでいてはならない先住民が住んでいる状態である。
「真実」の上では、その地は既に彼らの所有となっている。なのに「現実」では、そこには相変わらず、罪深く手強い者達が、占拠している。
このように、「真実」と、「現実」とが敵対している時、「真実」を信じて、「現実」に戦いを挑むなら、必ず真実が現実を飲み込む事になっている。
しかし、現実に飲み込まれて真実をいつまでも実行しないなら、それまた、その人の信じた通りになってしまう。
これは、現代を生きる私達にも、同じである。
主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行くのだ。
ちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行き、現金を下ろす手続きをして、ハンコを押す、という「信仰の行動」に出る事によって、現実のお金が手元に渡るのと同じである。
御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)
私達の人生も、ヨシュア記の当時と同じパラドックスに陥ってはいないだろうか。
御言葉の真理の上では、既にそこは自分の手に渡されている。
なのに、恐れや無気力などによって、信仰の行動をしておらず、そこに住み着いている邪悪な者達を、相変わらず、のさばらせたままにしてはいないだろうか。
主が共におられ、主と共に行動に出るなら、必ず勝ち取る事ができる。
ただし、主が味方して下さるためには、以下の事が必要である。
『それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。』(ヨシュア記23:6-7)
まずは、御言葉に堅く立って守り行い、そこから離れない事。
そして、神の国のものではない者達と交じり合わない事である。それは思想においても、価値観においても、そうである。
彼らの価値観や、彼らが「神」としているものを取り入れてしまうなら、主から敵対されてしまうからだ。
そして、何よりもまず、主を第一として愛する事である。
『ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主につき従わなければならない。・・・それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。』(ヨシュア記23:8-11)
これらは、十戒の第一戎と第二戎とにも通じる、霊的な最優先事項である。
『主が大いなる強き国民を、あなたがたの前から追い払われた。あなたがたには今日まで、立ち向かうことのできる者は、ひとりもなかった。あなたがたのひとりは、千人を追い払うことができるであろう。あなたがたの神、主が約束されたように、みずからあなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9)
今までのヨシュア記での戦闘では、信仰における失敗をした場合を除き、彼らの前に立ち向かった敵は一人もなく、ことごとく勝利して来た。
そればかりでなく、一人の人が千人を追い払うことが出来る、というのだ。
信仰の少数精鋭は、不信仰な大人数にはるかに勝るのだ。(レビ記26:8、士師記3:31, 7:19-22、15:15、1サムエル14章、2サムエル23:8)
私達の人生は、勝ち取っていない領域が沢山あり、生涯をかけて、それらを勝ち取って行くようなものである。
勝利の上で大事な事は、主が共におられるという事であり、主が共におられる状態でいるには、心を尽くして主を愛し、主にの御言葉を守り行う事である。