メッセージ - サライ、そしてサラへ(創世記18:1-15)
サライ、そしてサラへ(創世記18:1-15)
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前回主がアブラハムに現れてからさほど時間が経っていない頃、主は、三人の旅人に身をやつしてアブラハムの所を訪れた。アブラハムは旅人姿の彼らを見ると、もてなすために走り出て迎え、豪勢な接待をした。
その地方ではそうする事が美徳であり、それによって、その人やその家の品格が知れるものであった。
私達も、世で”美徳”と言われるものを、ないがしろにしてはならないし(ピリピ4:8)、主は、幻や奇跡といった「非日常」にしか現れないと思ったら大間違いである。むしろ、主は日常の内に、盗人のように思いがけず現れる(ヘブル13:2)。実際、アブラハムは知らずに主をもてなし、主からの養いを受けた。
アブラハムが彼らに給仕している時、彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
見ず知らずの旅人のはずなのに、「サラ」という、主に与えられたばかりの名を呼んで来たので、彼は驚いただろう。そして、次の言葉は、もっと驚くものだった。「来年の春(直訳:命の時)、わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう。」(10節)
サラは、彼らのやり取りを、後ろの天幕の入り口で、つまり、彼らの背中側から隠れて聞いていた。
この時点、サラは既に89歳で、生理はもう止まっていた。ハガルによって生まれたイシュマエルもすくすく育ち、それにひきかえ自分は老いて、子を産む事についてはもはやあきらめ、何もかも置いてけぼりにされたような、卑屈な信仰になっていたのだろう。だからこそ、このただならぬ客人の言葉を聞いても、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」と心で言い、力なく笑ったのだ。
しかしその時、彼らは言った。『「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春(直訳:命の時)、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。』(13-15節)
主は、信じて歩もうとする聖徒には、「命の時」を備え、帰って来て下さる。その時、人がいかに諦め果てていようとも、いかに絶望していようとも、主が約束して下さったなら、必ず命と喜びと、笑いとを与えて下さる。
「あなたの妻サライは、名前をサライ(Sarai)ではなく、サラ(Sarah)と呼びなさい。・・・わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記17:15-16)
サライも、サラも、両方「王女」という意味ではあるが、前回見たように、名前の最後に「ハーラフ(歩む)」の「ハ」が付けられ、彼女は「ただの王女」から、「主と共に歩む王女」というアイデンティティが付された。
しかしながら、彼女は「主と共に歩む王女」とは程遠い心境で、年寄りで見向きもされない、もう何も望めない、みじめな者と自己認識していたために、あの客人達の只ならぬ言葉にも、思わず笑ってしまう程だった。だからこそ主は、わざわざ旅人の姿で現れ、彼女を多くの国民の母として、王女として相応しい信仰者へと整えるためにサラを名指しし、ひと度約束された事を再度、彼女にも直接言われたのではなかろうか。
こうして彼女は否応もなく信じ、もはや、年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力が取り戻され、そればかりでなく、他国の王から召し入れられてしまう程の美貌まで取り戻し(20章)、約束どおり、彼女から多くの子孫が生まれるようになるのである。(ヘブル11:11-12)
12-15節の間には「笑い」というキーワードが、4回も出てくる。一年後に彼女が産むべき子は「イサク(彼は笑う)」という名前で、彼女はイサクの名を呼ぶ度に、この時の出来事を思い起こした事だろう。
イサクを生み出す一年前までは、老いて希望も無く、自嘲の笑いしか無かったのに、主は来て、むなしい年寄り女から、主と共に歩む王女へと、信仰を整えて下さり、腹の奥底からの笑いを与えて下さった、と。
世の女性が憧れる「王女」は、「サライ」のように、歳を経ると何の喜びも無くなってしまう。
しかし「主と共に歩む王女・サラ」は、いかに八十九歳であろうとも、若く力ある女さえも主にあって出し抜き、自嘲し卑下した笑いを、命の喜びに満ち満ちた腹の底からの笑いへと、造り変えられ、いかに「自分は笑わない」と否定的であろうとも、主は「いや、あなたは笑う」と、肯定して下さるのだ。
主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように若くされ、翼をかって上ることができるのだ。(イザヤ40:31)
サラのように、卑屈な信仰から主と共に歩む王女の信仰へと造り変えられていく皆さんでありますように!