メッセージ - 崩れ始める主にある秩序(士師記1:1-7)

崩れ始める主にある秩序(士師記1:1-7)

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執筆 : 
pastor 2014-9-1 23:50

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本日より士師記の講解説教に入る。

士師記はヨシュアの死から始まり、それ以降のおよそ400年、イスラエルが遍歴した道が記されている。
この時代は、モーセやヨシュアのような、イスラエル全体を霊的に正しく治める指導者はおらず、イスラエルの人々はおのおの、自分の目に正しいと見える事を行っていた。
それで、イスラエルの歴史の中でも、かなり無秩序な、荒んだ時代となってしまった。
イスラエルの人々が主から離れ、偶像礼拝を行い、その結果、律法に記されていた通りの災いが降り、それに懲りたイスラエルは主に助けを求め、それで主は「士師」と呼ばれる指導者(ヘブライ語でshaw-fat、判断する人、治める人の意味。「裁き司(さばきつかさ)」という訳が原意に近い。)をおこしてイスラエルを救い、そうして平和が戻り、生活も安定すると、再びイスラエルは堕落して災いが降り、、、という、繰り返しの歴史である。

1章から3章までの所に、そのような時代に入るまでの成り立ちが記されており、そして士師記のメインともなる士師たちの活躍が、3章から16章までの所に記されており、そして17章以降にはイスラエル諸部族をめぐる事件が記されているのだが、その事件の内容を見ると、当時のイスラエルがいかに荒んだ霊的状況であったかが伺える。

士師記は、ヨシュアの死から始まったが、偉大な指導者が死んだ途端、人々はめいめい好き勝手な事をし出して、混乱の時代へと突入するというのは、人類歴史では何度も見てきた事である。
日頃から人間の指導者に極度に頼ってしまうなら、ある日突然その人がいなくなってしまうと、混乱を来たしてしまうのは、当然である。
だから、私達が日々頼りとすべきは、決して死ぬこともなく、指示を誤る事も無い、完全なる指導者イエス様であり、私達が日々指針とすべきは、決して変わる事の無い真理の御言葉である。

『ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。主は言われた、「ユダが上るべきである。わたしはこの国を彼の手にわたした」。ユダはその兄弟シメオンに言った、「わたしと一緒に、わたしに割り当てられた領地へ上って行って、カナンびとと戦ってください。そうすればわたしもあなたと一緒に、あなたに割り当てられた領地へ行きましょう」。そこでシメオンは彼と一緒に行った。』(士師記1:1-3)
ヨシュアが死んだ直後は、それほど混乱は無いものの、イスラエルの秩序が崩れ始める兆候が、早速現れている。
物事を行う前に、主に伺いを立てるのは良い事である。
しかし、ユダは主から指名されたというのに、彼らは、指名されてもいないシメオン族を戦いに加えている。

戦いとは、命がけのものであり、そこに二つの部族が関与してしまうなら、戦いの方法や分捕りの配分、捕虜の扱いなど、色々な事について諍いが発生しやすくなり、色々な人の意見を折衝していく内に、どんどん主の御胸から離れて行ってしまいがちである。
この「御言葉への混ぜ物」は、最初はほんの些細な事かもしれない。
主も、彼らが少しでも命令を超えたから、即座に罰したわけでもなかったが、このような「ちょっとした事」は、さらに多くの「ちょっとした不従順」をばらまき、それが積もるなら、「大きな反逆」へと成長してしまうものである。

ユダとシメオンの連合軍は、確かに大勝利した。
しかし、王アドニベゼクをしばらく生かしておいた。
『アドニベゼクは逃げたが、彼らはそのあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り放った。アドニベゼクは言った、「かつて七十人の王たちが手足の親指を切られて、わたしの食卓の下で、くずを拾ったことがあったが、神はわたしがしたように、わたしに報いられたのだ」。人々は彼をエルサレムへ連れて行ったが、彼はそこで死んだ。』(士師記1:6-7)

主は、生け捕りにした王を、現地の風習に従ってなぶりものにせよ、とは言っていない。
むしろ主の命令は、カナンの住人は全て聖絶せよ、というものである。(申命記20:16-18)
それなのに彼らは、王をしばし生かしておき、しかも、生け捕りにした王の手足の親指を切り取るという、その地方で行われていた残酷な風習を取り入れている。
もしかしたら、ユダ族やシメオン族の、その場のノリや勢いでした事かもしれない。しかし、少しずつ、主の御言葉に混ぜ物をする事も、カナンの風習も、少しずつ入り込んで来てしまっている。

士師記を一言で言い表す御言葉は、『そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。』(士師記17:6、21:25) である。
世の人がそれを見る時、一体その事のどこが良くないのか、と思うかもしれない。世の人は普通に、おのおの自分たちの目に正しいと思うことを行っているからだ。
しかし神の民は、御言葉を退けて自分の目に正しいと思う事を行うのは、あらゆる災いの元であり、それは、アダムとエバの時代以来、変わっていない。
私達・神の民は、自分の目に正しいと見える事に歩むのではなく、御言葉に従って歩む者達なのだ。

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