メッセージ - 勝利はもうない、という宣言(士師記2:1-5)
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ヨシュアは最後のメッセージで、主が約束をして下さった良き事の中で、成就しなかったものは何もなく全部実現したと語ったが、その通りであった。(ヨシュア記23:14)
それなのに人は、主が命じられていた約束を、破ってしまった。
そこで主の使いが現れ、言った。
『わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない』と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう。』(士師記2:1-3)
今までイスラエルは、連戦連勝であったのに、いよいよ主は、イスラエルに勝利はもうもたらさない、という宣言がなされてしまった。
それは人の側が主の命令を捨てたからに他ならない。
主の使いが言った通り、イスラエルは、この国の住民と契約を結んでしまい、また、こぼつべき異教の祭壇を、放置したままだったのだ。
ヨシュアがイスラエルに相続地を与えてから死ぬまで、かなりの年月が経っていたはずなのに、ずっと異教の祭壇を放置し、為すべき事を為さないままにしておいた。その結果、エバのごとく、入手してはならぬものに興味がわき、魅了され、それを取り入れてしまい、結局、祝福が取り去られてしまったのだ。
私達も、捨て去るべきものを置いたままにしたり、止めるべき習慣を止めないままにしておくと、やがてはその状態に妥協し、共存している事に異常さを感じなくなり、ついには堕落しまうものだ。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(6:14-18)
信仰者が、不信者の輪の中に混じり込もうとするなら、二つの敵をつくってしまう。
それは、神から敵対され、懲らしめられ、またサタンの側にも、その人を攻め立てる根拠を与えてしまうからだ。
神に従う道は、白か黒かはっきりした道なのだ。
『主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。それでその所の名をボキムと呼んだ。そして彼らはその所で主に犠牲をささげた。』(士師記2:4-5)
彼らは確かに、声を上げて泣いた。主に犠牲も捧げた。
しかし、その泣いた涙は、自分達の罪を悲しむ悔い改めの涙ではない。ただ単に、主が勝利を与えて下さるという「特典」が去ってしまった事への悲しみだった。
また、彼らが捧げた捧げ物は、心から主と関係を取り戻したいという捧げものではなく、形式だけのっものだった。
なぜなら、その後、主に対する怠慢な心を改めたとか、偶像を捨て去ったといった記事は無く、その逆に、どんどん偶像礼拝へと落ち込んで行った記事しか無いからだ。
もしこの時、心から悔い改め、行いも改めていたなら、まだ希望はあっただろう。
あのイスラエル史上最悪の王であるアハブ王でさえ、預言者エリヤからの主から災いを降されるという言葉を聞いて、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれてへりくだった結果、主は彼が生きている間は災いを降さないようにして下さった。(1列王記21:17-29)
邪悪な町ニネベも、ヨナの説教によって悔い改め、上から下まで断食をし、主の前にへりくだった所、災いは降されなかった。
しかし、士師記の時代の彼らは、悔いはしても、改めはしなかった。
悔い改めとは、悔いて悲しむ事だけでなく、今までの悪い行いを改める事が必要であり、そのような方向転換なしには、全く無意味である。
それ故、イスラエルはその後、暗黒の時代に突入する。
パウロはコリントの人達に厳しい手紙を送り(1コリントの手紙)、コリントの人達はそれを読んで、悲しみ、悔いて改めた事を聞いて、以下のようにしたためている。
『そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。』(2コリント7:8-11)
悔い改めた人は、その人に定められていた災いを回避し、命へと至るが、改める事をしない「悔い」は、単なる悲しみであり、やがては死へと至らせてしまうものだ。