メッセージ - 失敗してしまった信仰の継承(士師記2:6-15)
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士師記の記者は、ヨシュアが生きていた時代から、士師記の時代に至るまでの、イスラエルの略歴を説明している。
ヨシュアと共に主の大いなるわざを見、体験していた世代は、主に仕えていたが、信仰の継承がうまく行っていなかったようである。
『ヨシュアが民を去らせたので、イスラエルの人々はおのおのその領地へ行って土地を獲た。民はヨシュアの在世中も、またヨシュアのあとに生き残った長老たち、すなわち主がかつてイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見た人々の在世中も主に仕えた。・・・そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。』(士師記2:6-10)
信仰の継承においては、自分がかつて見て体験した事を、単に口先で伝えるだけでは、不十分である。
ヨシュアから学んだ事をその本人も実践するなら、主は、ヨシュアにして下さったと同じように、大いなるわざをその人にも為して下さり、生まれてきた新しい世代達も、それを一緒に見、体験し、共に味わうなら、そのような家系は信仰にあって必ず栄え、廃れる事はない。
しかし、ヨシュアなどの偉大な信仰者と一緒に歩んでおきながら、自分が経験した事に安住し、自身は偉大な信仰者にならって「行う」事もなく、単に「むかしはこうだった」と伝えているだけなら、信仰の継承は、うまく行かない。
当時のイスラエルは、ヨシュアから命じられていた事を、どんどん先延ばしにし、ヨシュアにならって行動する事も、主のみわざを体験する事も無かった彼らは、世代が変わったとたん、主の怒りを引き起こすような事をし出してしまった。
『イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。』(士師記2:11-12)
主を捨て去り、偶像礼拝へ走る者が、イスラエル全土各地から出てくる。
それは、申命記やヨシュア記の時代では考えられなかった事だ。
信仰の継承をしっかりしておかないなら、わずか一代変わっただけで、そのようになってしまうものだ。
信仰の継承は、口先で伝えるだけでは、効果はあまり無い。
だから何? 自分はそんな大きな奇跡を見たことも経験した事も無いよ、と思われてしまうのが落ちであり、さらに彼らは、色々な教えで制約受けるのはかったるいと思うようになり、そんな親たちが言うような、見た事もない教えを聞いているより、目で見えて形のあるものや、目新く肉欲を刺激するもののほうがいい、と心移りしてしまうものである。
信仰の継承において大事な事は、主という「生けるお方」と、「生きた交わり」を一緒にして行く事である。
主は、生きておられ、人格ある御方である。
つまり、親と子の関係のように、また夫婦の関係のように、愛の言葉の交換をすものであり、よくコミュニケーションして意思疎通を取るべきお方である。
それをしないなら、主を知らない世代が育ってしまい、目で見える偶像へと傾いて、災いの時代へと突入してしまうのだ。
『すなわち彼らは主を捨てて、バアルとアシタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに対して燃え、かすめ奪う者の手にわたして、かすめ奪わせ、かつ周囲のもろもろの敵の手に売られたので、彼らは再びその敵に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らに災をした。これは主がかつて言われ、また主が彼らに誓われたとおりで、彼らはひどく悩んだ。』(士師記2:13-15)
親が受けていた祝福を、そのまま享受し、主を知らずに育った者は、高慢になって、主を捨て去ってしまう人が多いが、そのような者には、必ず”災い”という報いがある。
主は約束されていた。
『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。
主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:11-16)
イスラエルはいよいよ主を捨て去り、そのため、主はイスラエルをひどく悩まされた。
しかしそれは、ついには彼らをさいわいにするためである。
どうせなら私達は、懲らしめを受けずに、初めから生涯安泰でいたい、と思うが、それは可能だ。すなわち、主の教えを捨てず、御言葉に聞き従って守り行う限り、安泰である事は、主が約束して下さった通りである。
何より私達は、主と人格的な交わりをし、コミュニケーションとり、主を喜ばせる生き方を身に着けるべきだ。
主と共に歩む事が喜びとなってゆき、主と交わる事のほうが、世と交わるよりも”趣味”になって行くなら、それ程のさいわいは無いのだ。