メッセージ - 僅かな汚れが多くの聖なるものを汚す(伝道者の書10:1-7)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
僅かな汚れが多くの聖なるものを汚す(伝道者の書10:1-7):右クリックで保存
【概要】
愚かさの危険性と、キリストにつながることの重要性を説く説教。
【聖書箇所】
伝道者の書10:1-7、出エジプト記30:22-33、第一コリント6:14-20、詩篇133篇
【戒めの言葉】
わずかな愚かさが、神の聖なるものを汚し、台無しにしてしまう危険性があります。
【励ましの言葉】
キリストにつながることで、私たちは死に打ち勝ち、神の油注がれた者となることができます。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書10章1節から7節までです。
「死んだハエは調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは知恵や栄誉よりも重い。」(伝道者の書10:1)
この「調合した香油」とは何でしょうか。出エジプト記30章22-33節に記されています。それは神の宮のあらゆるものを聖なるものにするための油です。この聖なる油は、会見の幕屋、証しの箱、机などの器具に注がれ、それらを聖別します。また、アロンとその子らにも注がれ、彼らを祭司として聖別します。
この油は今日で言えば聖霊を意味しています。聖霊の油によって私たちは清められ、特別な賜物と使命が与えられるのです。
しかし、死んだハエのようなわずかな愚かさが、この尊い油を台無しにしてしまうのです。私たちがどれだけ奉仕し、礼拝を捧げていたとしても、ほんの少しの愚かさがすべてを台無しにしてしまうのです。
「知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。」(伝道者の書10:2)
これは十字架上のイエス様を思い起こさせます。イエス様の右には悔い改めた犯罪人が、左には悔い改めなかった犯罪人がいました。また、終わりの日には、イエス様は羊(救われる者)を右に、山羊(滅びる者)を左に分けられます。
「愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることをみんなに知らせる。」(伝道者の書10:3)
愚かな者は自分の愚かさに気づいていませんが、その言動によって周りの人々に自分の愚かさを示してしまいます。十字架上で「お前がメシアなら自分を救ってみろ」と叫んだ犯罪人のように、愚かな者は自分の愚かさを大声で宣言してしまうのです。
「私は日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席につけられている。私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。」(伝道者の書10:5-7)
これらの言葉は、イエス・キリストの受難を予言しているかのようです。本来、王の王であり主の主であるキリストが、罪人のような扱いを受け、十字架につけられました。ポンティオ・ピラトやヘロデ王といった愚かな権力者たちが、神の子イエスを裁く立場に立ちました。
しかし、イエス様は私たちの罪のために自ら低くなられ、十字架の死に至るまで従順でした。そのことによって、私たちの愚かさを打ち砕き、死に勝利してくださったのです。
第一コリント6章19-20節にこうあります。「あなたがたの体は、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体をもって、神の栄光を現しなさい。」
私たちはキリストによって贖われ、神の宮とされました。私たちの体のすべての部分に、キリストの尊い油が注がれているのです。私たちはもはや自分のものではなく、神のものとなりました。
詩篇133篇にあるように、「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう。それは頭の上に注がれた尊い油のようだ。それはヒゲに、アロンのヒゲに流れて、その衣の襟にまで流れ下る。」
私たちがキリストの体に連なるとき、キリストに注がれた油が私たちにも流れ、私たちは一つとされるのです。この一致と交わりこそ、教会の喜びであり力なのです。
【結論】
私たちの愚かさは、神の聖なるものを汚す危険性があります。しかし、キリストは私たちの愚かさを背負って十字架につけられ、死に打ち勝ってくださいました。私たちはキリストにつながることで、もはや愚かさの奴隷ではなく、神の油注がれた者となることができるのです。ですから、しっかりとキリストにつながり、キリストの体である教会に連なり、神の栄光を現す者となりましょう。