メッセージ - ギデオンの召命 - 弱い者を大勇士へ(士師記6:11-16)
礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの召命 - 弱い者を大勇士へ(士師記6:11-16):右クリックで保存
主は、主から離れたイスラエルを、凶暴な者の手へと渡し、荒らされ放題の状況へと追い込んだが、叫び求める彼らを助けるために、主は、ギデオンを士師として召しだされた。
ギデオンの名前の意味は「打ち倒す人」「切り倒す人」で、とても勇ましい印象を受けるが、主に呼び出された当初の彼は、とてもそんな者ではなく、臆病で弱々しかった。
『さて主の使がきて、アビエゼルびとヨアシに属するオフラにあるテレビンの木の下に座した。時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが、主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」』(士師記6:11-12)
ギデオンが初めて主から声がかけられた時、彼は、酒槽の中で隠れて、麦を打っていた。
あたかも、不良たちに弁当が奪われる事を避けるために、トイレの個室に隠れて食べていたような状況である。
そんな彼の所に突如、主の使いが現れ、「大勇士よ」「主はあなたと共におられます」と、声をかけられたのだ。
敵を恐れて逃げ隠れしている人に「大勇士よ」と呼びかけるのは、滑稽に見えるかもしれないが、主はよく好き好んで、最も弱い者を召し出し、大いなる事を任せられる。
モーセも当初、自分は口下手だから、誰か他の人を使わして下さい、と願ったし、エレミヤも最初、自分は若くてどう語っていいか分からない、と恐れた。
しかし主は、彼らを徐々に鍛え、整えて行かれた。ギデオンも、そうだった。
『ギデオンは言った、「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。』(士師記6:13)
ギデオンは、主が共にいますなら、なぜこんな事が起こるのでしょう、と、この世代の惨めな状況について吐露した。
主がおられるなら、なぜこのような災いが起こるのか。それは私達もよく思う。
しかし、主に愛されている人であればあるほど、その人が悪い行いをするなら、主は矯正するために、懲らしめるものだ。
もし人が主を捨て去り、他の神々へと走っても、何の懲らしめも受けず放って置かれるとするなら、それこそ主に愛されていない証拠である。
『主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:6-8)
『主はふり向いて彼に言われた、「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。』(士師記6:14)
主は、ギデオンの質問した内容には一切答えず、ただ真理のみを、すなわち、ただ彼が立つべき立ち位置のみを、示された。
主は、人間の不信仰な質問や、マイナス思考的なつぶやきに対しては、一切受け答えをしない。
主はヨブの膨大な質問責めのようなつぶやきには一切応えず、ただ、神の圧倒的な力強さだけを示したし、イエス様もベテスダの池に三十八年臥せっていた病人の心情吐露に一切応えず、ただ「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われた。(ヨハネ5:8)
またイエス様は、何か奇跡を見せてみよ、というヘロデの浅はかな質問責めに対しては、一切何もお答えにならなかった。(ルカ23:8-11)
私達も、尊い信仰を侮蔑するような質問や、不信仰な考え、マイナス思考的なつぶやきに対して、まともに応えてはならない。
彼らの土俵に降りて来る必要はなく、かえって彼らを真理の土俵へと引きずり出して来るべきで、不信仰なマイナス思考の言葉は、真理の御言葉によって、上書き保存して行くべきだ。
敵を恐れ、逃げ隠れして麦打ちをしていたギデオンに対し、イスラエル人をミデヤン人から救え、と、突拍子もない命令をして来た御使いに、彼は嘆息しながら自分の状況を訴えた。
『「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです。」主は言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」。』(士師記6:15-16)
主はギデオンに「わたしがあなたと共にいる」と言われた。主は確かに生きておられ、私達とともにおられる主、インマヌエルなる主である。
また主は、モーセとイスラエル民族に、「わたしはある(存在する)」と言われた。
不真実で、はかない私達が、自分自身をどう評価するかは、問題ではない。
在りて在られる「わたし」なる主が、どう評価されるか。そちらのほうが、真実である。
私達も、ギデオンのように、自分は大勇士とは到底いえない状況であっても、主がどのように評価しておられるかが重要であり、そちらが真実である。
私達キリスト者は、イエス・キリストにあって、どのような立ち位置を獲得しているか。
「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
「信じる者は決して渇くことがない。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
たとえ私達が、そのように「感じない」としても、私達の「感じ」が真理ではなく、御言葉に記されて事が真理である。
私達は、自分の「感じ方」「考え方」は御言葉の前に降ろし、御言葉に記されている事のほうを受け入れるなら、御言葉の圧倒的な力が私達に働き、不可能は可能へと、不真実は真実へと、弱者は勇者へと、主が塗り替えて下さるのである。