メッセージ - 未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24)
未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-9-29 19:39
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ギデオンは主に弱気な受け答えを繰り返したが、彼は今度は、しるしを見せて下さい、と求めた。
『ギデオンはまた主に言った、「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。どうぞ、わたしが供え物を携えてあなたのもとにもどってきて、あなたの前に供えるまで、ここを去らないでください」。主は言われた、「わたしはあなたがもどって来るまで待ちましょう」。』(士師記6:17-18)
私達がこの時の彼を見るに、本当に臆病で弱々しく、また、疑い深い信仰であるのを見て、本当に士師として大丈夫だろうか、と、思うかもしれない。
しかし主は、そんな彼を叱る事なく、飽きる事なく、弱い彼の信仰に応じて、一つ一つの要望に答えて下さった。
なぜなら主は、彼がそんな風に臆病に成長してしまった生い立ちをご存知であり、そして、彼がこれから主にあって造り替えられて行く後の、大胆な勇士としての未来をもご存知だから、主は、忍耐深く現在の彼をケアし、その成長を見守っておられるのだ。
それは私達についても、同様である。
永遠であり全能なる主は、私達が生まれてから現在に至るまでの成り立ちを全てご存知であり、また、主の栄光の器として造り替えられて行く将来の私達をも、ご覧になっておられるのだ。
『そこでギデオンは自分の家に行って、やぎの子を整え、一エパの粉で種入れぬパンをつくり、肉をかごに入れ、あつものをつぼに盛り、テレビンの木の下におる彼のもとに持ってきて、それを供えた。神の使は彼に言った、「肉と種入れぬパンをとって、この岩の上に置き、それにあつものを注ぎなさい」。彼はそのようにした。すると主の使が手にもっていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃えあがって、肉と種入れぬパンとを焼きつくした。そして主の使は去って見えなくなった。』(士師記6:19-21)
彼は、彼なりの主への供え物を整えて、主の指示通りに行った所、主は火によってその捧げ物を受け入れられ、そうしてご自身が主である事を示された。
主は要望通り、しるしによってご自身を示されたというのに、彼はなお叫んだ。
『ギデオンはその人が主の使であったことをさとって言った、「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使を見たのですから」。』(士師記6:22)
自分が何気なく主に訴えて望んだ事が、実際に実現してみると、まさかこんな事になるとは思っていなかった、えらい事になった、これからどうしよう、と、ショックを受けてしまう人もいる。
特に、弱い信仰の人はそうで、自分で何を願っているかも、またそれが実現したらどうなるかも、分かっていないのだ。
しかし、そんなギデオンにも、主は、励まして下さる。
『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安」と名づけた。これは今日までアビエゼルびとのオフラにある。』(士師記6:23-24)
本当に主は恵みと憐れみに富まれたお方である。
ギデオンはこの一連のやりとりを通して、主は平安の主であり、自分を面倒みて下さると定めたからには、主はとことんまで平和に導いて下さる事を学び、少しだけ前進した。
イエス様も、弟子たちに対してそうだった。
イエス様が十字架から復活された日の弟子たちの状況は、ギデオンが主に呼び出された時と似ている。
『その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
ギデオンは、ミデヤン人を恐れ隠れていた所に主が現れたが、弟子たちも、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた時、主が現れて「平安あれ」と声をかけてくださった。
主はギデオンに「あなたの捧げ物は受け入れた」というしるしを見せて下さったように、主イエス様も、十字架上で打たれた手と脇腹を私達に見せて下さり、あなたの罪の刑罰は、もうわたしが負った、あなたはもう神に受け入れられている、というしるしを見せて下さる。
主がギデオンを、イスラエルを救う者として遣わしたように、主イエス様も、私達を平和の使者として世に遣わして下さる。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』(ヨハネ20:21-23)
主は私達を遣わすにあたり、必要な権能を教会に与えて下さった。その権能は、ハデスの門さえ打ち勝てない権能である。(マタイ16:15-19)
『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。』(ヨハネ20:24-25)
トマスも、ギデオンのように見なければ信じない信仰の持ち主だった。
ただしトマスの場合はギデオンと違い、3年半ほど主のそばで行動を共にし、弟子としての働きをしていたというのに、まだ、見なければ信じない頑固な信仰者だった。
主は、そんな彼をも扱って下さる。
『八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。』(ヨハネ20:26-29)
このようにして、トマスもようやく、見ないで信じる者へと造り替えられて行った。
主は、一人一人に必要な養いを、それぞれにカスタムメイドで与えて下さるのだ。
主に養われ、主の似姿へとますます造り替えられ、有用な働き人として大胆に遣わされていく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!