メッセージ - 臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40)
臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-10-2 23:39
礼拝説教メッセージ音声:臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40):右クリックで保存
神の民の敵は連合し、大軍をなして攻めて来た。その数は、およそ十三万五千人。
その時、主の霊がギデオンに臨み、彼がラッパを吹き鳴らすと、彼の家の者・アビエゼル人が集まり、さらに母体の部族であるマナセ族が、続いて、イスラエル北方に領地を得ているアシェル、ゼブルン、ナフタリの部族の中からも、次々とギデオンの元に集まった。(士師記6:33-35)
おびただしい数の敵を前に、ギデオンは、およそ三万三千人の集団を率いる長として、立った。
彼はついこの間まで、敵を恐れる故に、酒槽の中で隠れて麦を打っていたような者、あたかも、不良たちを避けてトイレの個室に隠れて弁当を食べていたような状況だった。
それが今、多くの人々が彼に命を預け、戦おうとしている。
今まで、家の中で最も小さき者として過ごして来た彼にとっては、かつて無いような経験である。
主の霊に導かれて、人々を召集したものの、ふと我に返った時、彼には恐れが来たのであろう。
それは無理もない事である。
『ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。
ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。』(士師記6:36-40)
ギデオンは主に二度しるしを求めたが、このしるしの中に、キリストが隠れている。
キリストは、世の罪を取り除くまことの小羊として世に降りて来られた。
最初のしるしでは、羊の毛だけに露が降り、それ以外の全地は乾いていたが、同じように、かつては世において唯一キリストにのみ、父のひとり子としての栄光があり、めぐみとまことが彼には充満していた。(ヨハネ1:14)
第二のしるしでは羊の毛だけが乾き、それ以外の全地は潤っていたが、同じように、キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われた。
彼は富んでおられたのに、貧しくなられ、祝福されていたのに呪われ、いのちの君であられたのに十字架上で死なれた。
それは、キリストが貧しくなる事によって、彼を信じる人々が彼の代わりに富む者とされるため、また、彼が全人類の呪いを彼が一手に引き受け、全て彼を信じる者が祝福を受けるため、そして、死ぬべき私達の死を、彼が全て身代わりに背負って、死に、彼の身代わりの死によって、私達が永遠に生きるようになるためである。
彼が世の罪を取り除くまことの小羊としてほふられた時、彼の内にあった全ての知恵と力と栄光と富と、いのちの属するあらゆる良きものは、全ての人々へと解き放たれ、潤されたのだ。
ギデオンは何度もしるしを求め、主もまた、彼が安心するまで、何度もしるしを行った。
主は、見ないで信ずる者はさいわいである、と言われたが(ヨハネ20:29)、信仰によって歩みだしたばかりの人が、全く未経験の領域へと歩みだそうとする時、あるいは、今自分が乗っているこのレールは、果たして御心に沿っている道なのだろうかと、疑問が沸き起こる時、大いに、主に求め、聞くべきである。
主に聞きもしないで、勝手にゴールを変えてしまったり、あるいは、自分は相応しくないからと途中で降りてしまうのは、自分自身に滅びを招いてしまう事だ。
ヨナは主からの召命があったのに、逆方向へと向かってしまった故に、彼が乗った船全体に災いが及び、彼自身は、魚に飲み込まれてしまった。
また、モーセに連れられて出エジプトした民は、主に示された事を守らず、途中でエジプトを懐かしんで逆方向へ戻ろうとしたため、荒野で滅んでしまった。
ギデオンは確かに何度もしるしを求めたが、しるしが与えられておきながら御旨に背いた事は、一度も無かった。
どんなに怖くても、彼はちゃんと御旨を実行した。
そのような素養があったからこそ、主は彼を召しだされたのかもしれない。
私達も、いかに恐れても、臆病であっても、いかに落胆しても、それでもなお主の御胸を守り行って行くなら、どんどん勇士へとつくり変えられて行くのである。