メッセージ - 人が定めるものに秘められている罠(士師記8:22-27)
礼拝説教メッセージ音声:人が定めるものに秘められている罠(士師記8:22-27):右クリックで保存
ミデヤン人の王達は、ギデオンによって討ち取られ、いよいよ、イスラエルに平和が訪れた。
そして、人々はギデオンの所に来て言った。『あなたはミデアンの手からわれわれを救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫もわれわれを治めてください。』(士師記8:22)
後の時代でもサムエルが言っているように、イスラエルの国は、誰が「人間」が王となって治める事は、御心に叶わない事である。
ギデオンもそれを知っていて、人々に正しく応えた。
『わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます。』(士師記8:23)
現代を生きる私達も同じである。
私達が王とすべき方は、キリストお一人であり、それ以外の何者かを王とするなら、その人は誤った歩みをしてしまう。
キリスト以外の「何者か」とは、自分自身をはじめ、大好きな伴侶、何らかのイデオロギー、あるいは、霊的指導を受けている牧師先生も、それに含まれる。
キリストの御言葉よりも、それらのものを上に据え、キリストよりも優先させてしまうなら、それは偶像礼拝である。
キリスト以外の何者かは、必ず間違いを犯すし、御言葉以外の「ことば」は、不完全である。
しかし、主は決して間違いを侵さない。
この御方を唯一の王とする人達が教会であり、教会の一人ひとりがしっかりとキリストを王としているなら、そこは真に統率が取れ、平和であり、力に溢れ、共に栄えていくのである。
しかしギデオンは、どういうわけか、次の事を人々に指示した。
『「わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください」。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。彼らは答えた、「わたしどもは喜んでそれをさしあげます」。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。
こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。』(士師記8:24-27)
エポデは、祭司が身に付ける服であり、胸の部分には12種類の宝石がはめ込まれた「さばきの胸当て」が結わえ付けられ、その中には、主の御心を伺うウリムとトンミムが入れられるものである。(出エジプト記28章)
ダビデもよく主に御心を求め、その度に「エポデを持って来なさい」と祭司に言っていた。(1サムエル23:9)
ギデオンが、どういう動機で金のエポデを作らせたのかは、書いていないので憶測しかできないが、もしかしたら、次の事かもしれない。
すなわち彼は、主に何度も御心を伺い、尽く答えられ、それによってイスラエルに勝利をもたらした。
それで彼は、勝利の源は「御心を伺うことだ」と、御心を伺う象徴として、金のエポデを作り、後の時代の人々に、御心を伺わせるよう仕向けたのかもしれない。
しかし残念ながら、イスラエル人の心が未熟であったため、それはギデオンとその家に対し、そして、イスラエル全体に対し、つまづきの道具となってしまった。
「イスラエルは皆それを慕って”姦淫”をおこなった。」(士師記8:27)
イスラエルにおいて、姦淫とは、何も男女間で行われる性的な罪には限らない。
神の民にとっては、主こそまことの夫であり、それ以外の何者かを「主人」とする事が、すなわち姦淫なのである。(レビ記20:5-6)
たとえ最初は純粋な動機で作ったもの - それが何か記念的な、あるいは象徴的なものであろうと、あるいは、何かの決まり事であろうと - それが後には、人々の未熟さの故に、神から離れて行く道具として、サタンに悪用されてしまう、という事は、十分に有り得る。
例えば、クリスマスは本来、キリストの誕生を祝うために制定された日であるはずなのに、現代の日本を見れば分かる通り、人々をキリストへ導くどころか、多くの罪や物欲・性欲をそそらせる道具として、サタンに悪用されてしまっている。
だから主は、何者も「形」を作ってはならない、と、十戒で真っ先に定められたのだろう。
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:3-6)
私達は、形があるものであれ無いものであれ、主イエス・キリスト以外のものを、主以上に慕ってはならないし、また、誰かから主以上に「慕われ」てもいけない。
人が定める全てのものには、人を罪に束縛する罠となる可能性が秘められており、それに陥らないよう、日々気をつける必要がある。