メッセージ - 主を差し置いて王を求める事の災い(士師記9:7-21)
礼拝説教メッセージ音声:主を差し置いて王を求める事の災い(士師記9:7-21):右クリックで保存
イスラエルに誠実を尽くしたギデオンすなわちエルバアルの七十人の子達は、アビメレクの野心によって虐殺され、その惨劇の唯一の生き残りであるヨタムは、ゲリジム山に登って、その事をした者達に呼ばわった。
『ある時、もろもろの木が自分たちの上に王を立てようと出て行ってオリブの木に言った、『わたしたちの王になってください』。しかしオリブの木は彼らに言った、『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう』。』(士師記9:8)
この「もろもろの木」は、アビメレクをかついだシェケムの人々をあらわしているのだろう。
たとえの中で、その木々は、自分達を治める王になって欲しいと、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木に求めているのだが、次々と断られる。
オリーブの木からは『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、またいちじくの木からは『わたしはどうしてわたしの甘味と、わたしの良い果実とを捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、ぶどうの木からは、『わたしはどうして神と人とを喜ばせるわたしのぶどう酒を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と言って断られた。
自分の分をわきまえている人は、敢えて王となる事は望まないものであり、ただ、神様から与えられた賜物を用いて、神と人とを喜ばせる良き実を結ばせる事で満足するものである。
しかし、どうしても自分たちが好むように治めて欲しいと願う者達は、どうしても王を求めるものであり、そして彼らはその事が主を退けている事に気づいていない。(1サムエル8章)
結局、彼らが王になって欲しいと行き着いた最終先は、いばらであった。
『そこですべての木はいばらに言った、『きてわたしたちの王になってください』。いばらはもろもろの木に言った、『あなたがたが真実にわたしを立てて王にするならば、きてわたしの陰に難を避けなさい。そうしなければ、いばらから火が出てレバノンの香柏を焼きつくすでしょう』。』(士師記9:14-15)
この「いばら」はアビメレクを指している。彼らは、最も愚かなものを、王に立ててしまったのだ。
そこでヨタムは言う。
『あなたがたがアビメレクを立てて王にしたことは、真実と敬意とをもってしたものですか。あなたがたはエルバアルとその家をよく扱い、彼のおこないに応じてしたのですか。わたしの父はあなたがたのために戦い、自分の命を投げ出して、あなたがたをミデアンの手から救い出したのに、あなたがたは、きょう、わたしの父の家に反抗して起り、その子七十人を一つの石の上で殺し、その腰元の子アビメレクをあなたがたの身内の者であるゆえに立てて、シケムの人々の王にしました。』(士師記9:16-18)
シェケムの者達は、エルバアルの恩を、仇で返して来た。
自分達に都合よくしてもらいたいがために、恩ある人々を平気で殺して、都合よく王を仕立てる。そのような者には、呪いがもたらされる。
『あなたがたが、きょう、エルバアルとその家になされたことが真実と敬意をもってしたものであるならば、アビメレクのために喜びなさい。彼もまたあなたがたのために喜ぶでしょう。しかし、そうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう」。』(士師記9:19-20)
ヨタムはこのように宣言したが、最終的にはその通りに、彼らは互いを火で焼き合うような事になって行く。
ヤコブは言う。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。・・・舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:1-6)
私達は、いたずらに人の上に立って教師のようになろうとしたり、まことの王であるキリストを差し置いて、自分が王のようになろうとすると、その高慢が、自分自身を焼きつくし滅ぼしてしまう元となる。
私達はただ、与えられている賜物に従って、神と人とを喜ばせる実を結んでいくべきである。