メッセージ - なぜ天を仰いで立っているのか(使徒1:9-14)
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韓国語通訳有 한국어예배
弟子達の他、イエス様の兄弟達や、いつも離れずに共にいた女達もこの場所におり、彼らが見ている前で、主は天に上げられた。
彼らは約束された聖霊を受ける時までの暫くの間、共に集まり、アッパルーム(屋上の間)にて熱心な祈りを捧げる事になる。
イエス様は両手を挙げて弟子達を祝福し、その祝福している姿のままに離れて行き天に運び上げられて行った。(ルカ24:50-52)
そこに二人の白い衣を着た人達が現れ、語った。
白い衣を着た人達は恐らく御使いであろう。
御使いが現れるからには重要な場面であるので、彼らの語った言葉を詳しく見たい。
「ガラリヤの人たちよ」
ガラリヤ地方は異邦人と混合する、蔑まれるべき田舎の地方であった。
弟子達は、人々からは蔑みの対象として呼ばれる「ガリラヤの人達」かもしれないが「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(イザヤ8:23新共同訳、口語訳9:1)
ガリラヤの人達は、人々から虐げられ、自分で自分さえも虐げられるに相応しいと思っていたかもしれない。
闇の中を歩んでいたかもしれないし、死の陰の地に住んでいたかもしれない。
しかし、そんな彼らが、栄光を受けるのだ。
なぜなら、ひとりのみどりごが、彼らの為に与えられるからである。(イザヤ9章)
弟子達はとても喜べる状況ではなかったが、それでも彼らは喜んだ。
「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)が、世の終りまで、決して離れる事無くいつも共におられると約束されたからである。
私達もこのお方にあって、大いによろこび、楽しみを得る事ができる。
「なぜ天を仰いで立っているのか。」
現代においても、ある人達は再臨を待ち望み、山の頂上で待っていたようであるが、そんな事をしていたらこの御使い達に「なぜ天を仰いでいるのか」と叱られるであろう。
私達は、雲の向こうに見えなくなったイエスを期待して、天を見上げて立っているべきではないし、口を開けて木の実が落ちるのを待つ者のように、目に見える徴や奇跡を期待して待っているべきでもない。
それぞれの場所、それぞれの日常においてしっかりと根ざし、共に集まり、熱心に祈っているべきである。
「イエスは、天に昇るのをあなたたちが見たのと同じ有様で、やって来るであろう」
この事は、何も再臨の時に限った事ではない。
信じる者達全てに、今も、祝福の姿勢のまま現れて下さる。
目に見える主の現われや、目に見える徴・奇跡が来るのを天をあおいで待つのではなく、日常生活の中で熱心に祈り、一致し、集まるみなさんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!