メッセージ - 人からは捨てられても主が用いる器(士師記11:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:人からは捨てられても主が用いる器(士師記11:1-11):右クリックで保存
『さてギレアデびとエフタは強い勇士であったが遊女の子で、エフタの父はギレアデであった。ギレアデの妻も子供を産んだが、その妻の子供たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して彼に言った、「あなたはほかの女の産んだ子だから、わたしたちの父の家を継ぐことはできません」。』(士師記11:1-2)
主が今回、イスラエルを救うために立てた士師は、遊女の子・エフタだった。
エフタのような非嫡出子は、本来、主の集会に加わる事はできない。(申命記23:2)
しかし彼は、イスラエルを救うために、主から白羽の矢が立てられた。これはどういう事か。
本来、神の民にはなれない者・なってはならない者が、神の民に加えられ、しかも、神の国のため有用に用いられる。
それは、その人の主を信じる「信仰」の故であり、また、それが信じる者にとっての醍醐味である。
エフタには主を畏れ敬う純粋な信仰があった故に、主に用いられたのだ。
私達も同じである。
私達は元々は異邦人であり、救いから遠い、罪人であったのに、主イエスを信じる信仰の故に神の民に入れ、そればかりでなく、主の御用のために用いられる者とされたのだ。
『それでエフタはその兄弟たちのもとから逃げ去って、トブの地に住んでいると、やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた。』(士師記11:3)
エフタは異母兄弟から追い出されていたため、やくざ者の頭として略奪をしていたが、略奪する相手は、イスラエルから略奪していたのではなく、アモン人からだったと思われる。
なぜなら、もし彼がイスラエルから略奪しているとしたら、長老達からの申し出も無かっただろう。しかしもし彼がアモン人にいつも損害を与えていたのなら、長老達が彼に助けを求めて来たのもうなずける。
それに、彼自身は主を恐れ敬う信仰者であるので、神の民イスラエルから略奪するのは考えにくい。
エフタは、長老達からの申し出を一旦は断ったものの、長老たちは食い下がる。
『ギレアデの長老たちはエフタに言った、「それでわたしたちは今、あなたに帰ったのです。どうぞ、わたしたちと一緒に行って、アンモンの人々と戦ってください。そしてわたしたちとギレアデに住んでいるすべてのものとのかしらになってください」。エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。』(士師記11:8-9)
エフタは「主が彼らを私に渡されるなら」と言った。
ここに、勝利は主からのものであるという、彼の正当な信仰が垣間見られる。
『ギレアデの長老たちはエフタに言った、「主はあなたとわたしたちの間の証人です。わたしたちは必ずあなたの言われるとおりにしましょう」。そこでエフタはギレアデの長老たちと一緒に行った。民は彼を立てて自分たちのかしらとし、大将とした。それでエフタはミヅパで、自分の言葉をことごとく主の前に述べた。』(士師記11:10-11)
彼は、自分が大将となって、アモン人と戦う事を、真っ先に主に報告した。
その事からも、彼の信仰の純粋である事を、伺い知る事が出来る。
人々は、彼が遊女の子である事を理由に軽んじ、一度は捨てたが、主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、心が主にひとつとなっている人を探され、その物をもちいられる。(2歴代誌16:9)
神はこのように、人から軽んじられている人を、あえてよく用いられる。
なぜなら、救いは人の力や知恵によるのではなく、ただ神によるものであると、人々が知るためだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。』(1コリント1:26-29)