メッセージ - マッテヤ(使徒1:15-26)
礼拝説教メッセージ音声:マッテヤ(使徒1:15-26):右クリックで保存
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イエス様が天に挙げられた時、キリストを信じる者達は120人ばかりの群れだった。
結構な人数にも見えるが、使徒行伝を読み進めて行くうちにその人数はさらに膨らんで行き、当時はユダヤ一地方の集まりだったが、今ではその集まりは全世界に広がっている。
本日の箇所でペテロは、ユダについて語り、彼が元々どのような務めがあり、どのように脱落し、彼の亡き今、その職を他の人に継がせたい、という事を語った。
ユダは使徒のうちに数えられ、奉仕の分け前を「くじで」受けて(岩波訳)おり、イエス様も「わたしがあなたがたを選んだのではないか」と言っているため、この職は自らなるものではなく、主から選ばれ与えられるものである。
私達が神に愛され、呼び出され、任命されたのである。
私達から神を愛したのでもなく、聖なる務めに自ら就いたのでもない。
しかしユダは、良くないやり方で報酬を手に入れ、どういう経緯でかは判らないが尋常でない死に方をし、その事は有名になってしまった。彼は召されたが、聖なる職権を乱用し、不正な手段で得るべきではない報酬を得、そして、その報酬の真ん中へまっ逆さまに落ちて、粉々になってしまった。
このような形で最後を遂げたり、有名にはなりたくないものである。
ペテロは、ユダが「はらわたが飛び散った」云々と言ったが、果たしてそう言える口なのだろうか。
ペテロは確かに裏切ったが、誰にも咎められなかったのは、他の弟子達も同様一人残らず裏切ったのであり、そして、悔い改めたからである。
ペテロは聖徒達の交わりに復帰し、イエス様に聖霊を息吹かれ、心のわだかまりも復活の主ご自身に取り扱ってもらった。
使徒信条は「聖なる教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのち」の順番で続く。
聖徒の交わりの中にいれば、赦しがあり、よみがえりがあり、とこしえのちのちへ入る事が出来る。それだから、教会における聖徒の「交わり」は大切なのである。
ユダが脱落したため、彼の受け持っていた職を、他の者に継がせなくてはならなかった。
使徒職にふさわしい者とは、ペテロが示している通り、第一に「ヨハネの洗礼の時から始めて、私たちのもとから挙げられた日に至るまで、共にいた人々」であり、二つ目として「よみがえりの証人」である。(22節)
つまり使徒たる条件は、イエス様がどのようなお方であり、どのような事をなされたのか、という事を体験し、そして、彼が死人の中から復活した事を証言する者である。
くじはマッテヤという人物に当たった。
彼はこの箇所にしか登場しないため、どのような人物であるのかは分からないが、彼がどのような人物であったかと議論する必要は、全く無い。
なぜなら、イエス様の証人である私達こそが、マッテヤだからである。
私達もマッテヤ同様、脱落したイスカリオテ・ユダの不足分を補い、イエスが死者の中から復活して今生きており、その彼はどういうお方であるかという事を、伝える者達である。
同様に、脱落して行ったユダも歴史上の一人物とは限らず、もし神に選ばれた聖なる務めを軽んじ、不正な利益を得ようとするならば、その者はユダと同様であり、聖なる務めは剥奪され、自らの欲望へまっさかさまに落ち込んで行き、他の者がその務めの跡を継ぐのである。
マッテヤのように、立派な証人となる事が出来る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!