メッセージ - エリエゼル - 花婿の元へと導く助け主(創世記24:56-67)
エリエゼル - 花婿の元へと導く助け主(創世記24:56-67)
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アブラハムの老僕エリエゼルは、無事リベカの所へ導かれ、縁談も決まったが、使命はまだ終わっていなかった。『あくる朝彼らが起きた時、しもべは言った、「わたしを主人のもとに帰らせてください。」』(54節)
リベカの家族にしてみれば、この僕の行動は、何から何まで唐突すぎるように思えただろう。
ある日突然訪ね来て、リベカを嫁として下さいと申し出て、それを自分達が了承した事さえ規定外なのに、了承を得たその翌日には、もうリベカを連れて帰る、というのだから。
「娘は数日、少なくとも十日、私どもと共にいて、それから行かせましょう」と言ったのも、無理はない。
しかし、この老僕はやはり知恵深く、判断は正しかったのだ。
リベカが家での最後の日々を過ごす内、この唐突な申し出を受けるのはやはり不安だ、一度も見た事の無い国、会ったことの無い男性に嫁いで行くのは、やはりおかしい、といった思いが募ってしまうかもしれない。
彼女はその時、あまり実感が湧かなかったかもしれないが、これから彼女が入ろうとしている家は、祝福に満ちた永遠の栄光の家であり、彼女は国々の母となろうとしている。彼女が生来の家を出て、そこに嫁いで行くのは、遥かに素晴らしく、栄誉で、幸いな事なのだが、彼女自身、まだよく分かっていない。
私達もそうだ。主イエスにあって天の御国へと嫁いで行く事が、どれ程素晴らしく、栄誉に富んでいるのかを知らず、生来の場所で日常を送っている内に、聖なる「その気」が失せてしまうものだ。この老僕はそれを知っていたから、せっかちで想いやりが無いと思われる事を恐れず、速やかに連れて行こうとしたのだ。
聖霊もまた、人の目から見たら幾分せっかち過ぎるのでは、思いやりが無いのでは、と思えるような導き方をされる時もあるが、それでも、それに従うべきだ。何故なら、聖霊の導きは最善であり、完璧であり、私達の生来の家である”世”に対する”思いやり”は、永遠の莫大な栄誉を逃してしまう損失につながるからだ。
最終的な判断はリベカ本人に委ねられたが、リベカは即座に行く事を表明した。それで彼女はめでたく栄光の家系に加えられた。永遠の御国の事柄は、即断、即決、即行動こそ、成功の秘訣である。
アブラハムは割礼の契約が与えられた時も、イサクを捧げなさいと言われた時も、即決・即行動したのに対し、ロトは、滅びるべき町にだらだらと未練を残して、積み上げてきた財産を全て失ってしまい、ロトの妻は、滅び行くソドムの町をじっくり眺めたために、塩の柱となって、永遠にそこに留まる事になってしまった。
主の思いは、私達の願いや、私達の思う最善をはるかに超えて高い。(イザヤ55:6-9) 結局私達は、自分を降ろして御言葉に従い、御心を優先させる事こそ、最善と幸いを受ける最も近道なのだ。
こうしてエリエゼルは、リベカを連れて旅立ち、その旅路は安全で速やかだった。彼女が従順だったからだ。私達も、聖霊の導きに従順なら、人生の旅路は安全で、成長も速やかである。
エリエゼルとリベカが到着する時、イサクはちょうど野で黙想(原文「スアッハ」:瞑想する、祈る)をしていた。
彼が顔を上げると、らくだに乗った一隊が東方から近づいて来た。その中には、ひときわ美しい乙女がいて、顔や腕は金の飾り輪が飾られ、夕日の光を受け黄金色に輝いていた。イサクは見てどう思っただろう。
リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、野を歩いて迎えに来るあの方は誰ですか、と僕に尋ねると、あの方が私の主人ですと答えたので、リベカはベールを取り出してかぶった。(64-65節)
リベカが老僕に与えられた飾りで飾られ、花嫁とされ、花婿の所に導かれて行ったのと同じように、教会はキリストの花嫁であり、その飾りは、柔和で穏やかな霊という隠れた人柄であり(1ペテロ3:4)、従順であればある程、ますます整えられ、それが完成する時、花婿キリストと対面するのである。(黙示録21:2-4)
イサクは、母サラが産みの苦しみをした幕屋の奥の間へとリベカを導き、彼女を愛し、亡くなった母に代わる慰めを得た。キリストもまた、その妻である教会、すなわち、新しいエルサレムが整えられ、花嫁として自分の幕屋に迎える日を、心待ちに望んでいる。その時、花嫁である教会は、新しいエルサレムとして完成し、神の幕屋で花婿キリストと共に永遠に住み、全ての涙はすっかり拭い去られ、ゴージャスに飾られる。
透き通ったガラスのような金で飾られ、土台は全て色とりどりのの宝石であり、門は真珠でできているのだ。
私達にとって大事な事は、自前の何かではない。ただ主の血潮によって洗われ、清くされ、飾られる事。
そして、聖霊の導きに従順について行き、花嫁として整えられ、御心のままに飾られる事なのだ。