メッセージ - 主不在の礼拝ごっこ(士師記17:7-13)
礼拝説教メッセージ音声:主不在の礼拝ごっこ(士師記17:7-13):右クリックで保存
ミカの家には、刻んだ像と鋳た像と、自前の神殿とがあったが、祭司がいなかったため、息子の一人を祭司として立てていた。
そんな彼の所に、ユダのベツレヘム出身の一人のレビ人が訪れる。このレビ人は、18章30節によると、モーセの孫ゲルショムの子、ヨナタンである。
『ミカは彼に言った、「あなたはどこからおいでになりましたか」。彼は言った、「わたしはユダのベツレヘムのレビびとですが、住むべきところを尋ねて旅をしているのです」。ミカは言った、「わたしと一緒にいて、わたしのために父とも祭司ともなってください。そうすれば年に銀十枚と衣服ひとそろいと食物とをさしあげましょう」レビびとはついにその人と一緒に住むことを承諾した。そしてその若者は彼の子のひとりのようになった。』(士師記17:9-11)
ミカとしては「レビ人」という霊的地位の高い人を家の祭司に招き入れる事が出来、また、このレビ人にしても、安定した職場と住居が与えられ、互いの利害が一致してめでたしめでたし、と言えるように思えるかもしれないが、これもまた、主の御心から離れた宗教的自己満足である。
そもそも、家に自前の神殿がある事や、銀二百枚程度で作った偶像を天地を創られた主に置き換える事自体、間違いであるのだが、祭司として主の前に立てるのは、モーセの子孫のレビ人ではなく、大祭司アロンの子孫であるはずだ。(民数記3:10)
『ミカはレビびとであるこの若者を立てて自分の祭司としたので、彼はミカの家にいた。それでミカは言った、「今わたしはレビびとを祭司に持つようになったので、主がわたしをお恵みくださることがわかりました」。』(士師記17:12-13)
彼は、主(エホバ)がわたしに恵みをくださると言っているが、それは自分の望み通りの礼拝王国が完成した事の喜びであって、主の御心が成った事を喜んでいるのではない。
そして、このレビ人も、そこそこ良い条件の所に就職できた事に満足しているのであり、主の御心が成る事を気にも留めていない。
現に彼は、後に、より条件の良い就職先が出来れば、そちらのほうへホイホイと行ってしまうのだ。
現代でも、同じことがキリスト教会で行われないように注意しなければならない。
ある程度満足の行く働き場に”就職”して、主の御心を全く求めないミニスターと、ちょっとした霊的先生を自分の所に迎えた事に満足し、御言葉や御旨には一切無関心な信徒集団。
その両者の利害関係が一致して、主の御旨を外した礼拝ごっこで盛り上がる。
そこには、人間的な盛り上がりはあっても、主の臨在も、導きも、霊的満たしも、何も無い。
ミカは、レビ人を迎えた事を喜んだ。これで、全ての役者とアイテムが揃った、と。
私達キリスト者は、誰か「人」を迎えた事や、自分の望むアイテムが揃った事を喜ぶ者ではなく、キリストが私達に素晴らしい事をして下さった事、罪深い自分自身の罪が主の血潮によって清められ、天に私達の名が記され、永遠のいのちを獲得できた事をこそ喜び、そして、これからの道もキリストにあって最善へと導かれ、生かされて行ける事を喜ぶべきである。
私達はキリストの花嫁として、キリストの喜びとなるべく、日々自分自身を素晴らしいお方の花嫁として相応しく整えて行くべきだ。
キリストの名を大いに使って、キリスト不在の「礼拝ごっこ」というどんちゃん騒ぎをする人は、いつの時代にもいる。
私達は、御言葉のともしびに照らされて御旨に適った歩みをし、主の喜ばれる霊とまことによる礼拝をするものでありたい。