メッセージ - ダン族の「見える所によって歩む」不信仰(士師記18:1-10)
礼拝説教メッセージ音声:ダン族の「見える所によって歩む」不信仰(士師記18:1-10):右クリックで保存
『そのころイスラエルには王がなかった。そのころダンびとの部族はイスラエルの部族のうちにあって、その日までまだ嗣業の地を得なかったので自分たちの住むべき嗣業の地を求めていた。それでダンの人々は自分の部族の総勢のうちから、勇者五人をゾラとエシタオルからつかわして土地をうかがい探らせた。すなわち彼らに言った、「行って土地を探ってきなさい」。彼らはエフライムの山地に行き、ミカの家に着いて、そこに宿ろうとした。』(士師記18:1-2)
ダン族には「その日までまだ嗣業の地を得なかった」とあるが、そんな事は無いはずである。
ヨシュア記を読むと、彼らにはヨシュアのくじによって、確かに相続地が割り当てられている。(ヨシュア記19:40-46)
しかしダン族は、情けない事に、原住民によってそこから追い出されてしまったのだ。(士師記1章)
他の部族は原住民を制圧し、完全には追い出し尽くさなかったものの、苦役に復させたりしたのに、ダン族に限っては、その原住民に圧倒されてしまっているのだ。
ようするに、彼らが信仰に立って動こうとしない「霊的怠慢」の結果、彼らは追い出され、定住地を得ずに放浪していたのだ。
『彼らがミカの家に近づいたとき、レビびとである若者の声を聞きわけたので、身をめぐらしてそこにはいって彼に言った、「だれがあなたをここに連れてきたのですか。あなたはここで何をしているのですか。ここになんの用があるのですか」。若者は彼らに言った、「ミカが、かようかようにしてわたしを雇ったので、わたしはその祭司となったのです」。』(士師記18:3-4)
ダン族の斥候たちは、レビびとの「声を聞き分け」たので、色々と質問している。
誰に連れて来られ、ここで何をしていて、何の用があるのか、と。
このレビ人は一見、祭司風の格好をして、礼拝風の事をしているのだから、別に、根掘り葉掘り聞く程でもないであろうに、そこまで彼に興味を持ったのは、彼の言葉の内容、あるいは、その礼拝形式が、彼らにとって普通ではなかったのだろう。
もしかしたら彼の礼拝形式が、何か斬新で、いかにもご利益ありげに見えたのかもしれない。
『彼らは言った、「どうぞ、神に伺って、われわれが行く道にしあわせがあるかどうかを知らせてください」。その祭司は彼らに言った、「安心して行きなさい。あなたがたが行く道は主が見守っておられます」。』(士師記18:5-6)
このレビ人は「主が」と言って、エホバの御名を出しているが、それにしても随分と素早い返答である。
正当な神の預言者であるなら、まず主に伺うはずである。
モーセは、過越祭をやむを得ない理由で祝えなかった人々から質問された時、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう。』(民数記9:8)と言ったし、エレミヤも、主の御心を求められた時は、10日間主の御前に出て御心を求めた。(エレミヤ42章)
御言葉の根拠も無しに、あるいは主に伺いもせずに、幸いな言葉を即答したり、幸いな預言を乱発するような人は、要注意である。
『そこで五人の者は去ってライシに行き、そこにいる民を見ると、彼らは安らかに住まい、その穏やかで安らかなことシドンびとのようであって、この国には一つとして欠けたものがなく、富を持ち、またシドンびとと遠く離れており、ほかの民と交わることがなかった。』(士師記18:7)
このライシという場所(後にダンの名が付される)は、聖書地図を確認すると、イスラエルの領土の中でも北のはずれに位置する。
それで、「ダンからベエル・シェバまで」という言葉が、イスラエルの領土の最北端から最南端までのイスラエル全領土を意味する言葉となった。
彼らは、どういうわけで、その地に目を留めたのか。
『かくて彼らがゾラとエシタオルにおる兄弟たちのもとに帰ってくると、兄弟たちは彼らに言った、「いかがでしたか」。彼らは言った、「立って彼らのところに攻め上りましょう。われわれはかの地を見たが、非常に豊かです。あなたがたはなぜじっとしているのですか。ためらわずに進んで行って、かの地を取りなさい。あなたがたが行けば、安らかにおる民の所に行くでしょう。その地は広く、神はそれをあなたがたの手に賜わるのです。そこには地にあるもの一つとして欠けているものはありません」。』(士師記18:8-10)
彼らが、そこに攻め上ろう、と言った根拠は、その地の人々は弱そうで、孤立しており、たやすく攻め落せそうだというのが理由だ。
彼らは取って付けたように「神はそれをあなたがたの手に賜わる」と言っているが、そこは主がヨシュアを通して示された地ではなかったはずだ。
かつて、ヨシュアとカレブは、いかに敵が巨体であろうと、城壁を持っていようとも、主が共におられるのだから、必ず攻め落とせる、と、信仰によって攻撃を仕掛け、そして実際に攻め落とした。
しかしダン族の考えは、その全く逆である。
その地は相続地として示されていないし、しかも、相手が弱そうだから攻めていこう、と言うのである。
随分情けない。
信仰者の歩みは、見える所によってではなく、御言葉に信頼し、まだ見ていない主の祝福を勝ち取って行くものである。
私達はダン族のようでなく、ヨシュアやカレブのように、御言葉の約束を信じ、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。