メッセージ - 姦淫の裏切り女を引き戻すレビ人(士師記19:1-15)
礼拝説教メッセージ音声:姦淫の裏切り女を引き戻すレビ人(士師記19:1-15):右クリックで保存
前章までの所では、イスラエルではいかに偶像礼拝が蔓延しているかを見た。
しかしこの19章以降、イスラエルの堕落はもっと深刻な事態になっている様を見る事になる。
『そのころ、イスラエルに王がなかった』(士師記19:1a)
イスラエルは本来、神である主こそが唯一の王であるはずなのに、そうではなく、ある者はあの神を、別の者はこの神を、別の者はあの人この人を、それぞれ好き勝手に王としている時代であった。
『エフライムの山地の奥にひとりのレビびとが寄留していた。彼はユダのベツレヘムからひとりの女を迎えて、めかけとしていたが、そのめかけは怒って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの父の家に帰って、そこに四か月ばかり過ごした。』(士師記19:1b-2)
前回は、ベツレヘム出身のレビ人が、エフライム山地のミカの家に行った。
今回は、エフライム山地のレビ人が、ベツレヘム出身の女性を「めかけ」としてめとっている。
ルツ記を見ても、ベツレヘム出身のエリメレク一家がモアブへと出て行ったように、このベツレヘムという地からは、出て行く人は多かったかもしれないが、この地はダビデ王の故郷であり、イエス・キリストの生まれた場所でもある。
ベツレヘム(パンの家)という地は、そこに留まる信仰者は、幸いを受けるが、そこから出て行く人には碌な事が起こらない。
このレビ人の「めかけ」の女性も同じである。
彼女は「怒って」彼のところを去ったとあるが、「怒る」と訳された後のヘブライ語「ザーナー」は、「姦淫を犯す」という意味である。
KJVでは、「his concubine played the whore against him」と記されており、明確に、彼女が姦淫を犯したためにこのレビ人の所を去ったと記されている。
律法に照らすなら、夫のある身でありながら姦淫の罪を犯した女は死刑であり(レビ記20:10)、もしこのレビ人が祭司であるなら、女は火で焼かれなければならない。(レビ記21:9)
しかしこのレビ人は、彼女を平和の内に連れ戻そうとした。
これを読む時、預言者ホセアを思い出す。
主はホセアに「姦淫の女をめとれ」と命じ、そして彼はその通りに実行したのだが、その女は夫に子を産んで愛されていながら、姦淫するために出て行ってしまった。
そこで主は、彼女を呼び戻せ、と言われる。
『主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。わたしは彼女に言った、「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
本来なら死刑のはずの、姦淫の裏切り女にやさしく声をかけ、銀で買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。
それはまさしく、イエス様と私達の関係と同じではなかろうか。
かのレビ人も、ねんごろに裏切り女に声をかけ、よりを戻そうとした。しかし残念ながら、このレビ人は、彼女を命がけで守ろうという気概は、さらさら無かった。(後述)
それに引き換え、私達の主イエス様は、平気で裏切った私達のために命を投げ出し、私達が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けくださり、そしてねんごろに声をかけ、主の元へと引き寄せて下さった。
『そこで夫は彼女をなだめて連れ帰ろうと、しもべと二頭のろばを従え、立って彼女のあとを追って行った。彼が女の父の家に着いた時、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。娘の父であるしゅうとが引き留めたので、彼は三日共におり、みな飲み食いしてそこに宿った。四日目に彼らは朝はやく起き、彼が立ち去ろうとしたので、娘の父は婿に言った、「少し食事をして元気をつけ、それから出かけなさい」。』(士師記19:3-5)
彼女の父はこのレビ人によほど好意を寄せたのだろう、何日も彼を引き止めて歓待した。
創世記でも学んだように、パレスチナ地方では、旅人を篤くもてなす事が美徳とされている。
しかし、何日も歓待が続くので、彼らは、実に悪いタイミングで出立してしまう。
『その人がついにめかけおよびしもべと共に去ろうとして立ちあがったとき、娘の父であるしゅうとは彼に言った、「日も暮れようとしている。どうぞもう一晩泊まりなさい。日は傾いた。ここに宿って楽しく過ごしなさい。そしてあしたの朝はやく起きて出立し、家に帰りなさい」。しかし、その人は泊まることを好まないので、立って去り、エブスすなわちエルサレムの向かいに着いた。くらをおいた二頭のろばと彼のめかけも一緒であった。』(士師記19:9-10)
あまりにずるずると引き止めてしまう事も、引き止められてしまう事も、共に良くない。
アブラハムのしもべは、わずか1日歓待を受けただけで、翌日に早速出立したが(創世記24章)、それはやはり賢かったのだ。
『彼らがエブスに近づいたとき、日はすでに没したので、しもべは主人に言った、「さあ、われわれは道を転じてエブスびとのこの町にはいって、そこに宿りましょう」。主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。
『彼はまたしもべに言った、「さあ、われわれはギベアかラマか、そのうちの一つに着いてそこに宿ろう」。彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギベアの近くで日が暮れたので、ギベアへ行って宿ろうと、そこに道を転じ、町にはいって、その広場に座した。だれも彼らを家に迎えて泊めてくれる者がなかったからである。』(士師記19:11-15)
ギベアはベニヤミン族の領地であり、イスラエルの初代王・サウル王の故郷であるが、どうも様子がおかしい事に、この町の住人は誰一人として、家に迎えようとはしない。
不信仰の異邦人の町に留まるよりは、イスラエル人の町に留まる、という判断は正しいはずなのに、実は、この判断は、後に災いの元となってしまう。
人から御言葉から離れ、おのおの、自分のよかれで動くような時代は、何が安全で確実であるのかも、分からない時代になってしまうのだ。